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分かり合えたという錯覚

デンマークに行ってつくづく思ったのは、言葉が通じないということの不便さと、言葉以外でも分かり合える手段がありそうだという感覚だった。言葉以外とは、一緒に歌を歌ったり、ドッチボールをしたり、散歩したり、一緒に食事をしたり、ということだ。もちろん多少の言葉はかわすが,なにしろ日々を異国語の共同生活で過ごすことが初めてだったので本当に挨拶程度、最低限度生活に必要な単語が並ぶ程度で、とても「分かり合える」ほど話をするのとは程遠い状態だった。
では何が分かり合えたと感じたのだろうか。当時は一緒に生活する学生たちや先生たちが自分の行動を受け止めてくれる安心感とか、一緒に同じ空間時間を共有しているという高揚感、同じ人間なんだという納得感のような感情が支配的だったような気がする。感情的に(多少なりとも)分かり合えたような気がしていたのである。よく「あの人とは波長が合う」などという表現を聞くことがある。物理的な意味はともかく、ニュアンスはわかる。期待したリズム感をもって、期待した応答をしてくれる、というようなことだ。こんな時は「初対面なのに竹馬の友のようだ」と感じて嬉しくなるに違いない。
しかしもちろんそんな人は滅多にいないし、よく考えると「分かり合えた」という気持ちは自分の感情に他ならない。嬉しいことは嬉しいがなぜ嬉しいかといえば、もしかすると面倒くさい自分の説明をしなくて済むということかもしれない。もっと平たく言えば「楽だから」なのかもしれない。努力しなくてもお互いの行動,言動がわかるという関係、それは何だろうか。年齢を重ねて身体に不具合の兆候が出始めるとますますそれを実感せざるを得ない。なぜなら自分の痛みは他人にはわからないからだ。例えば腰が痛いと言っても現実はそんな大雑把なものではない。見た目には普通に歩けるし、姿勢に気をつければ物も持ち上げられる。ただ、ある狭い範囲のスピードと姿勢の条件で激痛が走る。それを説明するのは至難の業であるし,日常的に説明し続けることもできない。結局は説明できなければ諦めるより他ない。とすると分かり合えないという感情の痛みがおきて、ますますお互いの尊厳に危機をもたらしてしまう。
尊厳を守るための努力というのは「分かり合えていない」という前提を持ち続けることである。そしてそこに感情を挟まないことである。嬉しくもなければ失望もしない。ただ自分の言動で自分を説明し、ただ相手の言動をそのまま受け止める。それができる関係を作ることが尊厳を守り合うということだと今は感じている。

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