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「迷惑をかけてはいけない」

「人さまに迷惑をかけてはいけない」とはよく言われて育ってきた気がする。その通りだ。人に迷惑をかけるということは申し訳ないし、恐縮する。そんな自分が未熟で恥ずかしいという感情が湧く。自分に対する評価を容易に下げてしまうキーワードになっているようだ。このような自動的に受け入れてしまっている言葉は実はたくさんある。こう言った言葉を毎日のように思い出してはもう一度それが何だったのかを考える時間をくれたのがデンマークのフォルケホイスコーレへの留学だった。

迷惑というものを考えてみると、例えば、約束した時間を守るということ。これを守らないと、相手を困らせてしまうだろう。それから自分のいるさまざまな社会の中でしなければならないこと。これをしないとその社会の他の人が負担を感じて困るだろう。どちらも自分と他人との間にすべきことが決められていて、それを「しない」ときに迷惑をかけることになる。この二つはシンプルですぐに思いつくが、もう一つ、少し厄介なのがある。それは余計なことをしないこと。これはおそらく、他人の邪魔をしないということなのだが、これは、自分と他人との間にすべきことがはっきり決まっていないときに、それを「する」ことにほかならない。そんなことはしないに決まっていると思いたいのだが、ことはそう簡単ではない。「言われなくてもやる!」と叱られたことはないだろうか。つまり黙っていても気を配って行動しろというのだ。他人との間にすべきことを決めていないにもかかわらず、想像力を働かせて「しろ」というのだ。しかしながら「良かれと思って」とか「裏目にでる」という言葉があるように、想像して行動するから必ずしも思うようには行かない。

「言われなくてもやる」のが迷惑にならないというのはどういうことか。それは共通の規範がある場合である。共通の価値観といってもいいかもしれない。これがあ・うんの呼吸を生み、細やかな配慮を可能にするのだが、いかんせん共通の価値観というものがあるとすれば、自分の価値観と大なり小なりずれているのが当然である。(だからそのずれに対処するためのHowTo本が書店に積まれているわけだ。)そこに「良かれと思って」「裏目に出る」余地が存在する。

私はこのあ・うんの呼吸という独特のチームワークには価値があると思う。日本人の強みと言ってもいいかもしれない。しかしこの価値を維持するための共通の規範やそれと自分の価値観とのずれに対処するためのスキルを教育すること、その当然のことがあまり行われてこなかったのではないかという気がしている。自動的に日本人には備わっているという神話のようなことになってはいないか。そんな疑問がよぎるのだ。多様化を受け入れなければならない現代では伝統的な不文律だけに固執しているわけには行かない。そのような不文律も一つの選択肢であるということを自覚しなければならない。いや、すでに若い人たちは自然にそのように捉えているのかもしれない。

デンマークを始め、北欧の国々もデモクラシーを守るために日々努力しているようだ。デモクラシーを学校で教えていれば、国民性として定着するわけではなかった。毎年行われるデモクラシーフェスティバルを始め、それこそフォルケホイスコーレも成人向けにデモクラシーを教え続ける学校なのだ。何もしなければどんなシステムも壊れていってしまうだろう。共通の価値観を日々思い起こさせるような努力が継続されていたことをデンマークは教えてくれた。

「迷惑をかけない」は、本当は、自分の価値を下げてしまう言葉ではなく自分の価値を高める言葉になるはずだ。そのためには自分がどうすればよいのかということを具体的に考えることができる工夫が「共通の規範」の中に入り、誰もがそれを理解して実行できることだろう。その工夫がデンマークの幸福を導く、デモクラシーの考え方にあるような気がする。

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