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平等、公平、公正など

言葉は本当に難しい。と、難しいことを理由にしてあまり考えないことにしている。特に平等、公平、公正といった言葉だ。非常に大事だと言われていながらこんなに難しかったら誰も実践できないのではないか、とさえ思える。

類似した言葉はもっと多いかもしれないが、私はこれらをきちんと使い分けなければならないのだろうか。このように考えること自体がもしかすると落とし穴にはまっている、そう思うこともある。平等という言葉をネットで調べてみると同じようなイラストがたくさん出てくることに気がつく。3人の子供が壁越しに野球の観戦をしようとしている、あれだ。あの絵は多くの方が説明されており、絵を追加してもっと拡大的な説明がされていることもある。だがこちらが平等で、そちらが公平ですと、言われても、どうもよくわからない。絵と言葉が結びつかないのだ。

先日ネットのミーティングでデンマークのペタゴーという教育を支援する専門職の方のレクチャーを受ける機会があった。はじめての私にはちょっと難解だったが、特にジェンダー平等に付いて詳しく話してくれた中に、一つ印象的な言葉があった。ジェンダーの平等に付いては男らしさ、女らしさという型を設けず、選択する自由と選択する能力を与えるのだ、という。能力というのは機会と言い換えてもいいかもしれない。なるほど、平等というには、選択の自由と選択の機会の両方が揃っていることが大切なのかと腑に落ちたような気がした。

平等とか、公平とか、違うものだと考えるから混乱しているのではなかろうか。同じものを見る角度を変えたらそうなるのではないのか。箱が3つあり、その箱に価値があるなら、3人で1個ずつ分けるのは各自が箱を選ぶ自由と機会が与えられるなら平等だろう。では、壁越しの野球観戦はどうか。3人のうち二人は背が低いのでそのままでは観戦できない。つまり自由がない。この時点で平等ではない。では1個ずつ分けると、一番小さな子はまだ届かない。つまりまだ自由がない。一番大きい子が一番小さい子に箱をあげて、2段にすれば全員が観戦できる。これで自由が整う。その上で、観戦するのかしないのか選ぶ機会があること、これが平等だというのだ。公平と呼ぶならそれでもいい。とにかく選択の自由と選択の機会、これを揃えたところに平等があるのだということを認識した。

しかしものごと、そう単純ではない。良かれと思っても裏目に出たり、選択の自由を整えたくてもどうすればいいのかわからないこともよくあるだろう。事故で首から下が動かなくなってしまった少年が雪山登山を希望する自由があるのか?という例がそうだ。この辺りで考えるのをやめたくなるがそこを我慢して行くと、やはり自由と機会が与えられるべきだという話になるらしい。この表現、「自由と機会が与えられるべき」がミソかもしれない。デンマークは個人主義の先進国でもあるが、自分の自由と機会は与えらるものなのだ。だれから?  社会から。その社会を作るのが我々市民一人ひとりだという民主主義(デモクラシー)へとつながる論理になっているようだ。

日本でも自分の持っている平和や尊厳、人権といったものは「与えられた」ものだ。だれから? だれだろう。。。だれか偉い人かな? この時点で平等はどこかに吹っ飛んでいる。偉い人と平等なんて思いもよらない。私は何をすべきか、まだまだ考えねばならない。あーあ。

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