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自己責任は幸福の基礎

誰しも、何かをやり遂げて高揚感を味わったことがあるのではなかろうか。幼児期に無心になって描いた絵を褒められたとか、中高生の時に体育祭や音楽祭でチームのパフォーマンスを全力でやり終えた時とか、仕事でイベントをやり終えて打ち上げた時とか。チームでも個人でもその時の自分を最大限発揮した時にそのような高揚感が得られると思う。自分が発揮できればそれだけ高揚感は大きくなる。それなら自分が発揮できるとはどういうことなのか。

何度も書くことになるが、デンマークのフォルケホイスコーレに10ヶ月間滞在して高齢者の尊厳ある生活がなんであるかをやみくもに探していた時に、自治体のWebページの言葉に出会った。それは

高齢者の尊厳ある生活とは、自分の人生に責任を負う機会が与えられる生活である

という一文だった。デンマークは個人主義の発達している国だ。個人主義では、自己決定、自己責任、が重要視される。だから自分の暮らしやすい社会を自分が作っていく、それを互いに良しとして尊重する、そのようなものだった。他人に構わず自己主張するのではなく、自分の大切なものと他人の大切なものを理解して共有し共存するために対話を重視しているということだ。日本人としてそのような対話に慣れていなかった私はさぞかし彼らにフラストレーションを与えたことだろう。

日本では奥ゆかしいとかわきまえているとか、不言実行型の行動も美徳とされ、それが互いの気持ちに安心感として働きかけている。デンマークでは対話できるということが日本の美徳のように安心感として気持ちに働きかけているのかもしれない。いずれにせよ、人に安心感を抱かせる行動は自分も安心させ、より自分を発揮させることができる。そして十分に自分が発揮できれば、「人事を尽くして天命を待つ」のように、結果を引き受ける覚悟もできるのではないか。そしてそれはやりきったという充実感、つまりそれが幸福感になるのではないか。

そんな風に考えていたら、デンマークで見たその文は「自分を発揮し続けられる生活のこと」なのではないかと思えてきた。この言い回しなら日本の文化的伝統的な考えとマッチする部分がある気がする。自分が要介護の生活になった時、それでも自分を発揮し続けられる生活ができる、そうなればその時になっても「人生終わった」などと思わなくても済むのかもしれない。

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