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行動へ立ちはだかる壁

デンマーク(フォルケホイスコーレ)では様々な体験をした。しかし、もしそれが日本語の社会の中での体験であったなら、これまで見聞してきたことに照らしてそれほど珍しいものではなかっただろう。例えば、2020年1月は一ヶ月のプロジェクトセメスターで、クリスマス明けのこともあり学生数は半分の50名くらい、自治体の持つ様々な課題の中からテーマを選んでグループを作り、その課題解決を1ヶ月かけて自治体に提案するというものだった。実はデンマーク語に不慣れな留学生のために学校は留学生グループを作り、主に英語を使って留学生全員(と言っても数名だが)をまとめてサポートしながら進めてくれようとしていた。ところが私はそれまで5ヶ月の滞在で言葉はまだよく聞き取れなかったが学校生活のことはだいたいのみ込んだ(と思うことにした)ので、ここから実践にいかなければもう後はないと思い、先生の勧めを振り切って、一般の学生のグループに参加した。ちょうど私が一番気にしていた「地域の孤独な高齢者の問題」というテーマがあったのでそこに飛びついた。それまでの5ヶ月間、高齢者福祉の資料を図書館やWebで調べていたのでその辺の単語はすぐに目に入ってきたのだ。私が最初にその課題の紙の下に並んでしばらく待っていると5名のデンマーク人学生が集ってきた。先生が企画していた留学生グループは雲散霧消してしまったようだ。。申し訳なかった。。
そのグループに参加したおかげで、前々から行きたかった近くのケアセンターの職員との会合を行い、課題解決の協力を要請するために近くの専門学校、高校に出向いて生徒たちへのプレゼンテーション(の準備)を行ったりすることができた。寮の部屋に集まってパンを頬張りながら議論したりもした。色々聞き逃しているのでどこまで貢献できたかはわからないが、一人の学生として活動でき、他のメンバーもそのように扱ってくれたことはありがたかった。
世の中にはいろいろな「壁」があると思っている。壁があるおかげで自分が守られるという意味があるが、反対に自分が行動できなくなるということにもなる。そして壁には与えられた壁と、自分が築く壁がある。心理的な壁は自分が作る壁の典型だ。いずれにしても行動を阻むものということに違いはない。先のエピソードにも両方の壁が高くそびえていた。言葉や文化の壁は与えられた壁であり、3合目辺りまでは自力で登ったかもしれないが、残りは学校やコミュニティが引っ張り上げてくれたようなものだ。そして自分が築いた壁は「年甲斐もなく」とか「自信がない」とか「大変すぎて疲れた」とかいうものだが、日本でならある程度自分に説得力のあるこの壁は次の一語の圧倒的な圧力で砕け散ってしまったようである。それは
「この機会を逃したら、もうあとがない。全力でやるしかない。」
である。何十回となく頭を横切ったこの言葉は背水の陣とか火事場の馬鹿力とか、そんな感覚に近いものを私にもたらしたのかもしれない。
日本に帰ってきてからはこのような強い感覚はついぞなくなった。しかし言葉は脳裏に刻み込まれており、おまけに少しの自信がそこにくっついている。だから時々この言葉を使ってみたいと思っている。それは小さな行動を起こすことだ。どんなに小さくても良い、自分が起こした行動。そしてその結果を注意深く観察する。それが1ミリでも自分が安心できるような方向への変化を生み出せばその小さな行動が十分な意味を持ったということだ。行動と壁。壁は行動を妨げるものと思っていたが、行動させるものでもあるということを思ったものだ。

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