残念な佐藤さんと、準備だけ完璧なweb会議
完璧だ! 一つのミスもない。
二十三時。
ぼくはノートパソコンにひらいた資料提出用のソフトに、最初から最後まで目を通し、最終チェックを行った。
この三日間、朝から晩まで部屋に閉じこもっていた。夕食を用意するのは、友人たちから言わせると、ぼくならではの「残念な事情」のために、我が家ではぼくの仕事になっている。なのでカレーとおでんを用意していた。妻は食事だけでなく、部屋の片づけはもちろん、服装にも無頓着だ。なので、九月におでんを出すことも、洋食と和食を組み合わせることも、その組み合わせの食事が三日間続くことも、一切文句は言わない。
妻はコロナ禍でもテレワークになることはない仕事をしている。だから平日の三日間――まあそれだけではないのだけれど――、ぼくは一人で部屋に閉じこもり、提出用資料の作成に専念することができた。一人でとる昼食は、初日はカレー、二日目はおでんと白米と、一人分の味噌汁をこっそり手早く作り、三日目となるきょうは、キッチンで食事する時間が惜しかったので、パソコンを前にしてカップ麺を啜った。
そうしながらもぼくの頭の中では、あすのweb会議で発表する資料をいかに完璧にするかというアイデアが脳内をめまぐるしく駆け巡っていて、思い付いてはパソコンを触り、該当するページへスクロールをしては、カップをデスクへ置き、あいた左手でたどたどしい訂正を施した。
無論、この三日間はテレビも見ず、パソコンやスマホでネットニュースをチェックすることも一切なかった。このことが、今回のぼくの「残念」の遠因になるとは、思ってもみなかった。が。「残念体質」なぼくであれば、情報を知っていてもいなくても、起こるべくして起こった、というか、巻き込まれたことだったのかもしれないな、という気がしないでもない。
妻のたくみはとっくに寝室に入っている。寝つきのいい十歳若いあの女は、限りなくいびきに近い寝息を立てて、とっくに眠っているだろう。
「さて、っと」
ぼくはデスクに置いていた白いマグカップに口を付ける。氷水を入れていたが、仕事用の資料を作るのに夢中になっていたため、それは既に常温、少しぬるい水になっていた。
寝室へ行くと、やはりたくみは眠っていた。
ぼくはその隣のセミダブルのベッドへ潜り込む。LED電球が豆電球の色をまねて灯している薄暗い部屋の中、考える。
「web会議はあしたの朝十時から。ぼくら営業社員は、このコロナ禍、ほかの会社へ約束を取って商品を直接持ち込むという、従来の営業ができなくなっている。それに対する代替案をぼくは閃いた。それを資料にまとめた。3D技術を駆使し、相手のパソコンのOSが何であれ、素材の質感まで伝えられる方法を思い付いた。画期的なアイデアの筈だ。
おお! そう考えていると、普段ぼくのことを『残念やなぁ』と冷やかす上司や同僚たちが、ぼくへ『見直した!』というまなざしを向ける様子が目に浮かぶ! もっともそれらはパソコンの画面、みんな小さな横長の長方形の中に並んでいるわけだけれど。
たくみはタイミングが悪いことに、あしたは有給休暇の消化を命じられたそうで、家にいる。こんなことめったにないのにな。きょう帰宅してからいきなり『あした休みになったから』って言うんだもんな。まああの会社には以前からそういうところがあったけどな。急に午後から泊まりで四国へ出張、とか。でも、ぼくの「残念エピソード」を誰よりも喜ぶアイツも、さすがにぼくの仕事の邪魔をするようなことはしないだろう。
大丈夫。何も心配ない。大丈夫。ぼくの資料は完璧だ」
なのになかなか睡魔が訪れないのは、無意識のうちに、「残念体質」である自分に対し、
「こんなに何もかもがスムーズに運ぶわけがない。いつかどこかに『落とし穴』があるゾ」
という、警告というか怯えというか。いずれにしてももう五十年近く「残念人生」を送ってきたぼくの、哀しい習性なのだろう。
その考えに行き着いたとたん、ぼくは適切な素数を見出せた気がして、安心し、眠りに就くことができた。
ミーティングのIDとパスワードは、おととい、上司からメールで届いていた。
午前九時五十分。
少し早いかなと思いつつ、ぼくはパソコンを立ち上げる。緊張している。今回だけは失敗したくない。残念な結果で済ませたくはないのだ。
パソコンが起動する。メールソフトをクリックする。ひらかない。
「ん? なんでや?」
パソコンの右下にあるインターネットの接続状況を意味するアイコンは「オフライン」になっている。
「なんや。焦るやないか」
ぼくはアイコンをひらく。ひらくと、接続可能なwi-fiがずらりと出てくる。
が。
その中に、日ごろ見なれた「我が家のwi-fi」のネットワーク名がない!
「え。ウソやろ?」
この期に及んで「残念」発動はシャレにならない。ぼくは焦る。
スマートフォンのロックを解除する。家でもわざわざスマホにロックをしているのは、いたずらずきな妻が、勝手に会社の上司へぼくの寝顔の写真を送信したことがあったからだ。あの悪賢い妻は、ロックを解除するためのPINコードを盗み見てはすぐに覚えるから、ぼくはその四桁の数字を頻繁に変えないといけないほどだ。
ぼくのスマホでは指紋認証もできる仕様になっている。これも妻は、ぼくが眠っているあいだにぼくの指を指紋認証するところへ当ててスマホをひらき、昔からの悪なじみな友人へ、「お前ムカつくんじゃ」という悪い冗談を送り付けて、そのあとの言い逃れに苦心させられたことがある。なので面倒ではあるけれど、PINコードを頻繁に変えるのが、我が家では一番安心なことなのだという結論に至っている。
ひらいた画面の右上に、wi-fiの受信が可能なアイコンが表示されている。「受け入れ態勢」はできているということだ。
ちなみに。
パソコンで会議に出るときは、昨夜作った資料を「共有」という形で示して、会議に参加しているメンバーへ見せるつもりだった。一度あの「共有」ってヤツをやってみたかったのだ。スマホからではそれはできない。だけど、資料をパソコンでひらいて、それをスマホに映せばプレゼンテーションはできなくはない。
資料はUSBメモリーに保存してある。昨夜、いっそweb上に保存しようかという発想が浮かんだのだが、この事態に至っては、昨夜の自分の判断は適切だったようだ。
最低限プレゼンはできる。「初共有」よりもそちらのほうが喫緊の課題なのである。
ぼくはスマホで、試しに検索でもしてみようと思う。
タップする。
ひらかない。
外出先で使うために、当然、モバイルデータ通信も搭載している。もしかしたらテレワークの期間が長すぎたために、モバイルデータが自動的にオフになっているのかもしれない。そんな機能があるかどうかは知らないが。
設定画面をひらき確認するが、モバイルデータ通信は「オン」になっている。念のためwi-fiも確認するが、「オン」である。機内モードにもなっていない。
「おかしい……」
スマホの左上に表示されている時刻表示を見る。「09:55」。ヤバい!
ぼくは手にしているスマホで、同僚へ電話をかける。
「お前、何してんねん。ほかみんな揃ってるで」
同僚の背後、というか同僚が前にしているパソコンの中から、ぼくが残念をしでかしたときに聞こえる、みんなの失笑が聞こえてくる。同僚はスピーカーモードにして通話をしているのだろう。
「パソコンもスマホも、きょうに限ってネットがつながらへんねん」
ぼくのことばを同僚は、パソコンの中のほかの人たちへ、わざわざ伝えてくれている。
「ヨメさんは? ヨメさんのパソコンかスマホはどないやねん。あ、仕事って言ってたっけ?」
「たまたまきょうはおるんやけどアイツまだ寝てるし」
ぼくはふてくされる。
そこへ、
「どないしたん?」
妻のたくみがパジャマ姿で部屋へ入ってきた。おお! なんとベストなタイミング。
「今起きて来た。試してみるわ」
「おお」
同僚は、取り敢えず先に会議を始めておくと言って、一旦通話を終えた。
「お前のスマホ貸して」
そのとき頬から耳にかけて、冷や汗が流れていることに気づいた。却って心が冷えた。
「なんで?」
たくみはあくびをしながら問う。無理もない。
ぼくは朝からのいきさつを急いで伝える。
たくみは寝室へ戻り、自分のスマホを持って来る。
「ちゃんとネット、つながってるでぇ」
たくみは十数歩のうちに、「歩きスマホ」をして、自分のスマホのネット環境を確認してくれていた。たくみのスマホがネットにつながるということは、プロバイダの不具合というわけではないことがはっきりした。
「お前のスマホのメアド、何やった?」
「ええ? めんどくさいなぁ」
と文句を言いながらも、たくみは自分のフリーメールアドレスを確認し、ぼくのデスクの上に置かれていたメモ帳に、彼女らしい、乱雑な尖った字でアルファベットを書き並べる。
「ここへ会社からメール送ってもらってもええか? いや。頼む。今回だけはそうさせてくれ」
「ええでぇ」
日ごろは無頓着さに苛立つことの多いたくみだが、こういう場合の彼女のこの個性に、ぼくは感謝する。
同僚へもう一度電話をかけ、たくみのメールアドレスを伝える。
「そこから会議に出るから」
「おお。わかった」
同僚は電話を切った。
が。
五分、十分待っても、会社からたくみのアドレスへ、メールは届かない。
そのあいだにもぼくたちのほうには、新たな問題が発生していた。
たくみのスマホは容量がいっぱいで、会議用のアプリをインストールすることができないのだ!
「何か要らんアプリ、アンインストールせえよ」
「要らんヤツなんてないわよ。全部要るからインストールしてるんやろ?」
「……」
困った。『男はつらいよ』の「御前様」、笠智衆が発しそうな、絶望的な「困った」気分である。
そのときたくみが言い出した。
「駅前のネットカフェに行ってみたら?」
「お前、ネカフェって行ったことある?」
「ない」
「ああいうトコでweb会議って、してええんかなぁ? ドラマなんかで見ても、みんなヘッドフォンしてるとか、静かなイメージないか?」
「ああ確かに……」
「すまんな」
ぼくは素直に詫びた。やっぱりコイツはぼくの妻なんだなと実感できた。とても珍しいことだ。
「じゃあどうするん」
たくみが言う。
「諦めるしかないな。同僚に連絡して、休むって言うわ」
「その人に資料をメールで送って、代わりにプレゼンしてもらったら? せっかくアンタ、最近珍しく、今回のプレゼンには気合い入れてたやん」
確かにその手もある。しかし、プレゼンのせりふまで、ぼくは頭の中にシナリオを作っている。今回のアイデアは大事な我が子である。その謂わば「出産」だけを、他人に任せる気にはなれない。
と同時に、普段はぼくの「残念」を誰よりも喜ぶ妻が、ぼくのがんばりを一応は認めてくれていたと知れたことが嬉しかった。これはとても珍しいことで、恐らくは八年弱の結婚生活の中で初めてのことではないだろうか。なので彼女のこの気持ちが長続きしないものだということも心に刻んではいる。
「ヘンな意地張って出し抜かれても知らんで」
たくみはぼくの考えを見透かしているようだ。
「そう……やな。お前の言うとおりやな。ネットカフェから資料の送信だけするわ」
ぼくはその旨を伝えるべく、同僚へ電話をかけた。
「もう会議終わったで。お前何しててん」
責めるような口調である。
時計を見る。
十一時半になっている。
そして同僚が続けて言うには、こうだった。
ぼくの二年後輩にあたる男性社員が、3D技術を用いての営業方法を提案し、それを実用段階に発展させることで意見はまとまった、とのことだった。
「素材の質感も伝えられる方法?」
ぼくは確認をする。
「なんでわかるん! そうやねん。画期的やろう?」
それはぼくが用意していたものと同じ内容ではないか……やられた。なんでこんなときにまで「残念」が訪れるのだ。ぼく史上最悪の「残念」だ……。
デスクに向かってうなだれているぼくの背後からたくみが、両肩に軽く手を乗せる。軽く小さな手のひらから、
「ようがんばったやん」
というやさしい声が、聞こえる気がした。気のせいかもしれないが。
一日を無為に過ごした。寝室にこもり、天井だけを眺めていた。もしネットにつながることができて、会議でプレゼンをできていたらどうなっていただろう?
会議には「議案書」ができていた。議案事項の覧で、確かにその後輩は、「営業のための新しいアイデア」と書いていた。それを読んだときに、「ぼくと似てるなぁ」とは感じたが、まさか全く同じものだったとは……。
議論する順番は、ぼくのほうが先だった筈だ。これはたまたま議案書に書き込んだのがぼくのほうが早かったからというだけのことなのだが。
そうしたら、同じアイデアをholdしていた後輩は、どう出ただろう? 彼はぼくよりも社内では信頼されている。というか、相対的にぼくの評価が低すぎるのだ。これも件の「残念」が影響しているに過ぎない。恐らくあの冷静で紳士的な彼は、ぼくのプレゼンを最後まで聞いたあとで、自分の資料を「共有」し、同じアイデアを発表するつもりであったことを出席者へ伝えることになっただろう。もめごとになったとは考えにくい。
たとえ発表する順番が後輩のほうが先だったとしても、ぼくは「アイデアを盗まれた」とか、「ぼくも同じことを考えていたのに!」とかと言って、子どものように駄々をこねるようなまねはしなかったろう。まあ同じことをしても、ぼくがしたことであれば、会社の人たちは「やっぱり佐藤くんは残念やなぁ」と冷やかしたりからかったりはしたとは思うが。
後輩とぼくとのアイデアがダブっていたとは……もう考えてももうどうにもならない。誰が悪いわけでもない。
これから後輩の発案を進めて行く中で、ぼくは率先して実用化についてのアイデアを提案していけばいいじゃないか。でも、先を越されたのは悔しい。プレゼンさえできていれば……そんなことばかりに思いを巡らせていた。
寝室に西陽が射して来たので、ぼくは部屋から出た。たくみはリビングでテレビを見て大笑いしている。いつものことだ。よく笑う妻だ。ま、それに救われることもよくある。今だってそうだ。ぼくは苦笑する。
キッチンに立つ。冷蔵庫を覗く。キュウリとハムと玉子と、冷麺の素がある。
冷麺を食べるとき、たくみはテレビでニュース番組を流した。久しぶりに見るテレビからは、いつものニュース番組が流れる。
「きょう、日本時間午前十時ごろ、大きな太陽フレアが発生しました。そのため一部の通信機器に、インターネットへの接続ができないなどの不具合が生じました。不具合の件数はそれほど多くないため、今のところ大きな混乱は報告されていません」
見なれたくせ毛で丸い目の男性アナウンサーが、淡々と言った。
きょう午前十時ごろ?
「ちょっと!」たくみがテーブルに手をついて立ち上がる。テレビの画面を指さしている。「そう言えばきのうのニュースでも言うてたわ。アンタ知らんかったん?」
「知るかいや。オレは資料作るのに必死やったんやから。ネットニュースも見てないわ」
「でもアンタのアレのことちゃうん。今スマホ、ネットにつながるか試してみぃ」
あのあとぼくはふてくされて、一度もスマホを触っていなかった。
寝室からスマホを取って来る。朝のたくみと同じ、「家庭内歩きスマホ」である。
「ああ! つながるぅ!!」
「アンタ……『一部の通信機器』に当たったってことやな。しかもパソコンもスマホも! 『大当たり』やん。宝くじでも当たるんちゃう?」
たくみはもう席に着き冷麺を食べている。具と麺とを始めにぐちゃぐちゃにかき混ぜるのがコイツの食べかただ。下品だからやめて欲しいと何度も注意したが、ぼくの言うことなぞ聞くようなヨメではない。
「これ。オレにとっては『大きな混乱』なんやけど」
「じゃあテレビ局に電話でもしたら? 『ぼくには大きな混乱が起きましたぁ』って」
ぼくは考える。
有料ネット通信サービスが停止した訳でもない。大手通信回線がストップした訳でもない。ぼく個人に起きた「混乱」は、社会全体からすれば確かに「大きな混乱」ではないだろう。それにしても……嗚呼……。
「ほんま、アンタ、とことん残念やなあ。それにさ。アンタが『画期的やぁ!』って思って気合い入れてたアイデアだってさぁ、結局は後輩も思い付いたってことは、たいして画期的じゃなかった、ってことやん? そこが一番残念やとは思わん?」
たくみは美味そうに、具の絡まった麺を口に運んで笑っている。
ぼくが返せることばは一つもなかった……。
了
四百字詰め原稿用紙 二十三枚
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