そこにリンゴはあるか?

 最近、私はことばや概念などを構造体とみなし、そのなりたちを探るという試みを行っていたが、ここでそのような考え方の陥りがちな誤解について書いておく。―というか、実のところ私自身、そのような勘違いを危うく犯すところだったので、自戒を込めてこの文章を書いている。これまでの投稿を読んでくださっていた方にとっては、今回のタイトルは「王冠主義の抱える問題点、あるいは反論」のようなものと思って頂ければわかりやすいと思う。

 単刀直入にいおう。ものごとを「このような価値を持つ」「このような働きがある」という視点で見ている限り、その本質、というかそのものの存在自体は見えてこない。対象がリンゴであれ、文字であれ、そのことは同じである。

 例えば、リンゴについて「重石になる」「天体のモデルとして使える」「甘い」「歯触りがよい」「赤く見える」—このように定義したとする。これは、王冠主義でいうリンゴの「形態的な側面」である。これらはみなリンゴが「物質」「物体」としてもつ性質であり、私はこれを道具的価値と呼んだ。

 しかし、リンゴが重石になったり、天体のモデルになったり、あるいは味わえたり見えたり触れたりできるというのは、環境要因によってそのような能力が与えられるとき、その時に限る。天体を知らない猿の前で、リンゴはモデルとしての能力を持ち得ないし、猫の前でそれは味わえるという能力を持たず、そこに重力が働いていなければそれは重石にならず、そこに光がなければそれが赤く見えることもない。仮にリンゴが宇宙空間のただなかに浮かんでおり、どのような存在もそれを観測できないほど隔絶していたとしたら、そのリンゴはなんの能力も、どのような価値ももたないことになり、したがてそれは存在しないことになるのか? いや、そうではない。リンゴは確かに存在するのである。ものの持つ価値やその能力は、「それそのもの」ではないのだ。

 今回は道具的価値についてのみ言及したが、それはほかの側面(「表象」と「象徴」)、そしてほかの価値(「美的価値」と「認識的価値」)についても同様である。そのものが美しくないから、あるいはそのものが何の「意味」も持たないからといって、そのものの存在自体が否定される理由にはならない。逆に私たちにとって醜くて、あやふやで、「役立たず」に感じられるものも、そこに存在するという事実は当然受け入れられるべきであるし、平等に尊重されるべきである。王冠主義によって明らかになるのは、「私たちが見ているリンゴ」であって、「リンゴ」ではないということを、私たちは肝に銘じるべきである。


 

 

 

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