ことばと感情

 文章は思考の道具であり、かつ思考を規定する。文章による事物の規定と体系化は、論理的思考に必要不可欠なものである。われわれ人間の頭脳が算術や初歩的なコミュニケーションといった実用的思考にとどまらず哲学的あるいは数学的な抽象的思考に堪えうるのは、言語というツールを用いておのおのの概念に対する適切な「タグ付け」を行い、それを記憶・整理できるからであるといっても過言ではないだろう。

 それでは、感情のほうはどうであろうか。私たちは論理とそれに用いられる概念に対してのみならず、感情に対しても名前をつけ、その名前を知り、文章という形でほかの概念との結びつきを確保している。感情がことばに影響を受けているということは、このような例からまず間違いないといってよいだろう。問題はその逆で、ことばが感情に与える影響が存在するかどうかである。

 あなたががどこかの学校の生徒であるとして、そこの先生から「あなたはわが校の自慢の生徒だ!」という言葉をかけられたとしよう。特別な文脈がない限り、あなたはそれを聞いて何かしらの感情を抱くだろうし、それは「快」と「不快」でいうなら「快」に近いものであろう。しかもその感情はおそらく、先生の言葉そのものというより、その言葉から判断される先生の意思や態度といったものから喚起されるものである。この時点で、感情はことばの影響を受けているとは言い難い。せいぜい、その感情が発生するための橋渡し役を果たしたに過ぎないだろう。

 続いて、その感情に対して名前が付けられる。それはあなたの内側で行われる手順かもしれないし、あるいはその出来事を他者に共有する際になされるプロセスかもしれないが、いずれにしてもそのような場面で、あなたが感じた感情は「よろこび」や「ほこらしさ」という名前を獲得することになる。ここで重要なのが、何らかの感情を指し示すためにその名前が使われるのは、おそらくそれが初めてではないということである。

 複数の経験によってもたらされる感情のすべてが、全く同じであるというのは考え難い。むしろ、そのそれぞれが少しずつ異なっていると考えたほうが自然だろう。しかし、名前をつけられる段になって、その差のうちのある部分については無効化され、いくつかの「同じ感情」のグループが編成される。文章というシステムに組み込むためには、経験されるすべての感情に対していちいち名前を与えるわけにはいかないのである。このようにして、感情はことばによって「デフォルメ」され、「カテゴリー化」される。しかも、それは直接にはほかの誰にも手伝ってもらうことのできない、孤独で私的な作業なのである。

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