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「負の感情」が世界を変える

 私には何かと嫌いなものが多い。上っ面の人付き合い、弱者を排斥して快感を得る人間の集団、幸福をタブー視する風潮、何かにつけて「らしさ」を押し付けてくる親戚どもと、そいういう人種が大半を占めている社会。そして何より、そんな世界になすすべもなく組み込まれようとしている自分。効率の悪いことも伝統を盾に変化することから逃げ回ることも、余裕がないことも何もかも気に入らない。「好きこそものの上手なれ」とはいうものの、そう簡単にものごとを好きになったりはしないのが実情だ。

 しかし、というか、だからこそ、私のモチベーションは常にそういう「不満」とか「嫌悪」といったいわゆる「負の感情」から生まれている。好きなことを追求するよりは、気に食わないものを気が済むまで改良してやろうという、そういう姿勢でものごとに臨むことが多い。逆に、好きなものについて「開拓」する勇気はなかなか出ないものだ。自分がそれを嫌いになってしまうことを恐れて、足を踏み出せないということがままある。そんな自分がまた嫌いになって、当面の間「それを好きな自分」を忘れることを試みるのである。

 「愛は世界を救う」という、私の大嫌いなテレビ番組の掲げる大嫌いなスローガンがあるが、全くもって馬鹿げていると私は思う。愛など振り回したところで、せいぜい自分が救われた気になるのが関の山だ。愛そうとすることも、愛されようとすることも、結局は自己の正当化に過ぎなくて、そこから生まれるのはたんなる思考の逃げ道である。「私の、あなたに対する愛」を追い求めるあまり、肝腎の「私」や「あなた」が蔑ろにされるケースの、なんと多いことか! 見せかけの子供だましで正義を騙り周囲を巻き込むのは、いい加減やめて頂きたい。

 世間は、どうにかして「嫌い」とか「悲しい」とか「気に入らない」といった感情をひたすら覆い隠そうとする。それは「マイナス」の気持ちで、「良くない」ものだから、と。しかし、そうやって自他ともに「なかったこと」にされてきた「負の感情」こそが、世の中のものごとを変えていく原動力なのだと、私は言いたい。愛だとか品格だとか意地だとか、そんなくだらない虚構で不平不満を抑え込むような時代は、もう終わりにしよう。生意気だとか身の程を弁えろだとか、そんな戯言は放っておこう。私はこの世界が嫌いだ。大嫌いだ。だからこそ、変えていく意味があると思っている。変わっていくべきだと思っている。今後どんなに私が自分を嫌いになっても、この考えだけは、譲らないつもりだ。


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