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新学期の花見

 先日、大学院の新入生ガイダンスがあり、久々にキャンパスに足を踏み入れた。卒業式からはや二週間。今年度からは大学院生として、再びここに通うことになる。
 天気も良く、キャンパスの桜がちょうど見頃を迎えていた。午前中の説明会を終えた私は食堂で簡単な昼食を済ませると、庭園のベンチに腰を落ち着けた。
 暖かい春の陽射しを受けて、満開になった花びらの薄桃色が輝いている。時折吹きおろす風がそれをはらはらと散らして、青草の鮮やかな地面にも無数の小さな花が咲いたかのようだった。

 午前中のガイダンスでは大学院の同期たちと初めて顔を合わせたが、およそ半分が留学生で、残りの大半も他大学からの進学者だったように思う。少なくとも、学部時代に授業で見かけたことのある面々は全くといっていいほどいなかった。同じ大学の枠組みとはいえ、これだけ見るとなんだか別の学校に来たみたいで、心細い気持ちがないわけでもない。

 一方、学部時代の友人の多くが就職して、SNSでは入社式や勤務地の決定の話で盛り上がっていた。とはいえフルタイムの労働者として生きることは決して楽ではない。学生のときに比べて時間の使い方の選択肢が減ってしまう人も多いだろうし、その自由な時間でさえ仕事のことを思うと、あまり無茶なことはできないかもしれない。
 もちろん何事もやってみなければわからないのだけど、そういう不安を抱えているのは同じなのではないだろうか。頑張っている友人たちの姿を横目に、苦労を先延ばしにしようとしている自分の様子が浮かぶようで、なんだか申し訳ない気持ちになることもある。

 私は目の前の景色をスマートフォンのカメラに収めると、SNSにアップロードした。遠く離れた場所から、全く異なってしまった立場から、せめてもの応援の気持ちを込めて。このキャンパスでは今年も春が訪れて桜が満開であること、私はここに残って私なりに、のらりくらりとやっていくのだということ、ただそれだけを伝えたかった。
 画像を見返すと、小さな画面いっぱいに満開の桜が花を散らしている。それはきっと春風に乗って、遠く私の思いを届けてくれるように思えた。


 写真に切り取られた次の瞬間からも、数え切れないほどの花びらが次々と宙に舞っていく。
 かつてこの美しさが死と結びつけられて、戦争で命を落とす若者たちの姿がまるで素晴らしいものかのように語られた時代があった。命を惜しまず戦いなさい、桜のように散りなさいと。それを思うと、今こうしてぼんやり桜を眺めているだけの私はずいぶん呑気に生きていると感じる。
 私はむしろ、こうして散っていく桜を「死」ではなく、むしろ「生」の在り方として眺めたいと思う。そもそも桜が散るのは、それで終わりだからではなく、次の春にまた花を咲かせるからだ。寒い冬を超えて一斉に蕾を開かせると、また来年の満開の季節を迎えるために、その到来を信じて、あっという間に風に乗って消えていくのだ。

 次にこの桜が花をつけるとき、私はどうしているだろう? ここにいて研究を続けることができているかもしれない。あるいは、そうではない可能性だってあるだろう。けれどいずれにしても、私に今できることは、その先に何かがあると思える道を歩いていくことだけなのだと、私は気持ちを引き締めた。

 ふと足元に目を落とすと、膝に置いた黒いかばんに小さな花びらが一枚、ちょこんと乗っかっている。思いがけず小さな贈り物を受け取ったような気がして、少し嬉しくなった。そっと立ち上がると、薄桃色のプレゼントは、ちょうど風にあおられてどこかに飛んでいった。

 背中に日だまりの残したぬくもりを感じながら向かいの図書館に入ると、高校時代からの友人にばったり会った。昨年度までは学部も同じだったのだが、果たして卒業したのか、その後どうしていたのかは全く知らないままだったのでちょっと驚いた。彼もまた、大学院に進んで勉強するのだそうだ。真面目な友人のことだから、きっとうまくやっていけると思う。
 私は彼ほど熱心にはなれないかもしれないが、とりあえず目の前のことに取り組んでいくしかない。そうやって手探りで進んだ道の先で、いつか互いの行く宛を確かめ合う日が来るのだろう。
 窓の外では、ひときわ強い風の中で桜吹雪が勢いよく舞っていた。

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