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Chara「命のまつり」その51~直観を信じて脱出

2011年の3月11日東北大震災
あの地震後、原発の事や震災の被害についてかなり兆候優位な状態が続いていた。自律神経が活発で、自分を守ろうとしていたのだと思う。

最近、ポリヴェーガル理論の本を読んだ。
「闘う・逃げるモード」が続きつつも、フリーズして「凍りつきモード」をいったりきたりしている状態だった。


何か体がそわそわする胸騒ぎを感じていた.
仕事が3日休みだったのもあり、テレビの報道を注視していた。

実は、地震直後からデイパックに必要最小限の荷物をつめいつでも、
娘をつれて東京を離れる準備をしていた。

3月14日午前11時1分、福島原発3号機の爆発をテレビで見た瞬間、
全身の鳥肌が立ち、胸がどきどきしてきた。

逃げなきゃ!!

そんな一心で、夫にメールで「逃げます。実家に帰ります」と知らせた。
娘に早めのお昼ご飯を食べさせた。
準備してあるデイパックを持ち、3歳になったばかりの娘をつれて電車に乗り羽田空港へ向かった。

夫は、突然のことで驚いていた。

当時、計画停電の関係で電車の本数も減っていたり、途中の駅で停車し何分も時間を待つことがあった。なんとか、羽田空港に着き、広島行きのチケットを買い飛行機に乗った。

飛行機が離陸した時、やっと深く息を吐き出すことができた。

広島空港からリムジンバスで広島駅に向かった。
もう、18時になっていた。
最終便の高速バスで実家に帰れる、そう思ってバスに乗った。
娘も疲れていた様子だったが、飛行機やバスに乗ってはしゃいでいた。

そして、夜の22時前に故郷に着いた。
すぐにでも実家に行きたかったが、実家にはシーズーのナナちゃんがいて、娘がアレルギーで喘息発作がでるため行けなかった。
しかたなく、駅前のホテルに娘と1泊したのだった。

あの時、本当に動物的な直観としかいいようのない衝動に
突き動かされ、娘を守りたい一心で東京を出た。

その後、東京のマンションの荷物は夫にたくし、私は仕事もやめ
田舎での生活を始めた。
半年ぐらいして、夫も私たちのところに来て一緒に暮らし始めた。

2011年3月11日はの出来事は、本当に人生の大きな転機となった。
地元に帰って11年が過ぎたが、今でも帰ってきてよかったと思っている。




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