東京タワーと電波塔

もうこのnoteを始めて二、三年ほど経っています。

読んでいる人がいるのかいないのか、私には分かりませんが数人の友達が思い出したように「最近書いてないよね」なんて言ってくれるので、きっと書いている意味は見出されているのだろうなとも思います。

何より自分のために書き綴っているものですから、日記となんら変わりないのですが、だれかに見られるかもしれないという意識下で文章を昇華することは、案外必要なことなのです。

さらに、少々醜い感情とも言えますが、「だれか」にその意味を委ねることができるというのはなんとも形容し難い安心感にもなっているのかもしれません。

そんなことをほざいていても、私のnoteの下書きは10を超えていますし、下書きに戻してしまった記事もあります。

それでもいいのだと思います、その時々の感情任せに残した言葉が誰かに届くのならば、それはきっとこの上ない幸せでしょう。


はちみつとシロツメグサ

毎日、過去数年のこととこれから未来の数年のことを繰り返し考えます。
不思議と、いま現在のことは人はあまり考えません。

世界は点と点のつながりで、全ては線になるにも関わらず、人は過去と未来ばかり慮っては、まるで解を知ったかのような顔をして得意げに嘆きます。


今、現在、いま、そこに何かの曇りがあるから考えてしまうことを、グラフ上のもっと違う点で考える癖がついているのでしょう。
そうやって人はいつも、不完全性を煽って、助長するのです。

無免許運転にも程があります、ワイパーの出し方くらい覚えてられないものでしょうか。

ウォッカトニック

父親がものづくりの職に就いていて、その関係でテレビのセットを見たことがあります。

それは小さな部屋で、振込用紙やゴミの分別に関する知らせなどが積み重ねられ、洗濯物が丸まっており、丁度よく、それ相応に、ごちゃごちゃしていました。
生活がまるでそこに本当にあるかのように、きちんと作り込まれていました。

そのとき、とても写真写りのいい部屋だと感心したことを覚えています。
同時に、ものすごく薄気味悪く感じました。
なんというか、〝生活の匂い〟がなかったのです。あくまでテレビのセットですから、当たり前です。

でも、生活の匂いとは確かに希薄なもので、別にだからと言ってなんの不自由も正直ありません。
「そうと思えばそう」なのです。要は、考え方次第なのでしょう。

黒を白だと思えば、それが白になることすらあり得る世界で、無責任にも私はあなたに、絵の具を自分で選ぶことができる人でいてほしいと思います。

無反省にゴージャス

B&Oのプレイヤーにレコードを乗せて、ボブ・クーパーの古いLPをかけるような人が昔とても好きでした。
ウェスト・コースト・ジャズを好むような。
そして、季節の花を一輪買っては、枯れる過程すらを嗜む人でした。

『また枯れてしまった』というから「ドライフラワーにでもしたら?」と言うと、

『君はまだ何も知らない』

百合や向日葵より、花菖蒲を選んでいるのだと思います。
私はやっと、「少し大人になりました。」


才能がないなら勉強しろ

少し前の記事で、自らのことを
〝そういったことを音にも言葉にも乗せる才能がない〟と書きました。

ひとつも、秀でるものはありません。
それでも、勉強はなんとか、人並み程度にできるようにしています。
「勉強する」という努力は、誰にでも与えられた才能だからです。

難しいのは、それを続けるということ、要するに、〝頑張る〟ということなのだと思います。

勉強とは、いわゆる座学で習得するような学問的意味合いだけではなくて、
それは仕事だとか異文化コミュニケーションだとか、そういったことも含みます。

才能がないのなら、ただひたすら勉強して、ただひたすら頑張るだけなのです。
投資的動機で構わないのです、点と点が線になるからです。

≒記号

こういったnoteを書いてることを知った人が、私に「知識人だね」と言ってきたことがあります。

烏滸がましくて図太いことを承知の上で、私は「純粋に文学をやる」私で居たいと思って言葉を重ねています。

知識人になんて、なるもんか。
論文ではない、言葉を書きたい。
でも、説明文だってノンフィクションだって、最近では毛嫌いしていた自己啓発本だって読む。

どんなことだって、感じ取れるのです。

あなたがそれを感じ取れないこと、私のせいにしないでほしい!

チューイングガム

ビニール越しの天空が見える。
雨が降ると、ぽたぽたと雨降りの音が、うんと上の方から聴こえます。
素敵なのは雨上がりで、ビニールが少しずつ乾き、太陽がキラキラと輝きます。
まるで海底から水面を見上げているかのように。



「全く支離滅裂で何が言いたいのか分からない!」と思ったでしょうか。

実のところ、私もそう思います。


本当はもっと上手く、比喩やらなんやら文章表現を駆使して、分かりやすくて端的な文章だって書けるのですが、
あえてそうしたくなかったのは、〝生活の匂い〟とはそういうものだからです。

「分からない」ことを、大切に飾っていてほしいです。
「何もしない」ことを、大事に〝して〟ほしいです。

そういったこと、これからもここに私は。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?