メゾン・ド・モナコ 64
その夜、もやもやが止まらず、少し冷静になろうと、なずなは庭に出て、イベントの為に出していたベンチに腰かけた。これからは常設となりそうだ。
ぼんやりと、空に浮かぶ大きな月を見上げる。夜風が頬を撫で、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。
ふぅと息を吐き、手にしたスマホに視線を落とす。メッセージアプリを開いたり、思い直して電話帳を開いたりを繰り返し、結局画面を閉じてしまう。
なずなは、バンドのメンバーだったボーカルの瑠衣に、連絡を入れるべきか悩んでいた。
彼女に必要とされなくても、今まで共に歌ってきた曲だ。一言くらい伝えたい。例え、煙たがられても。
だけど、どうしても勇気が出ない。不必要と言われた過去が顔を出し、誰もがそう思っているんじゃないかと思ってしまう。
ダメだ、頭を振ってその思いを振り払おうとするも、トラウマのように根付いた感情は、なかなか消えてくれなかった。
せっかく上向いた心が、また沈んでしまいそうだ。
「なずなさん?」
声に振り返ると、フウカがいた。縁側からやって来たフウカは、心配そうな表情を浮かべている。
最近、フウカにはそんな顔をさせてばかりだが、その顔を見て、なずなは申し訳ないが少し安心してしまった。
「どうしました?」
「…ちょっと葛藤してまして」
「葛藤?」
「…一緒にやって来た仲間との曲を、他の人とやってもいいのかと…向こうから私を切り捨てたわけですけど、共に乗り越えてきた曲なので」
「作ったのはなずなさんなのに、捨てた相手にまで心を傾けるとは、優しいですね」
「そんなんじゃないですよ…踏ん切りがつかないだけです。私、まだ諦めきれないのかも、ナツメ君が歌ってくれるって言っても、その先に私がいるわけではないし」
「なずなさんだって、夢を追えば良いじゃないですか。まだ若いんだし」
なずなは苦笑い、首を振った。
「私には、表に出る才能はないんです。薄々気づいてたんです、ここまでだって。でも認めたくなくて、こうやってまだ悩んでる。幾つになっても夢は追えるかもしれないけど、それでご飯食べていくんだって情熱は消えちゃって。なのに捨てきれてない…瑠依に連絡しようとしてるのだって、何だか縋りついてるような気がして」
なずなは、大きく息を吐いて空を見上げた。
「変なプライドばかりで情けないですね…」
笑えば、フウカは笑って首を振った。
「ずっと追いかけていたものは、簡単には捨てきれませんよ。どんなものも同じです。僕も同じです。夢のようなキレイなものではありませんでしたが」
「そんなことありませんよ!私がフウカさんでも、同じように戸惑ったと思います」
フウカの過去を否定したくない。傷ついて悩んだ日々だって、その時のフウカも否定したくなかった。
「…あなたは優しいです。だからその人も、あなたと、あなたの作る曲に惹かれて共に歌ってきたんでしょうね」
「どうでしょうか…」
「一度話されてみては?」
「え?」
「恨んでるわけではないでしょう?その人を。それなら、傷ついたあなたの心が可哀想です。わだかまりを抱えたままじゃ前には進みにくいでしょう…僕も、会ってきます。彼女にちゃんと、ケジメつけてきます。これは、なずなさんがくれた勇気です。大丈夫、そう思わせてくれました。何があっても、ここには仲間がいると、だから大丈夫だと」
フウカはなずなに目を向け、微笑んだ。その柔らかな表情はいっそう清々しく、迷いない瞳が、フウカは前に踏み出せたのだと、感じさせた。
「なずなさんにも、僕達がいます」
言って、フウカは少し照れくさそうに瞳を揺らし、まだグローブをはめたままの手に視線を落とした。それから、その手をなずなのスマホを握る手に重ねた。
突然の接触に、なずなは僅かに肩を跳ねさせたが、フウカはなずなには視線を向けず、俯いたままその手を躊躇いがちに、きゅっと握った。
「…僕は、あなたに救われました。この手がどんなに心強かったかしれません。あなたを拒む人がいるなら、僕は許しませんよ」
穏やかに紡がれる声が、心地よくなずなの心を包んでいく。きゅっと握られた手が、少しだけ赤くなった耳が、重ならない視線が。どれもが全て、なずなを包む過去から守ってくれるみたいで、胸が締めつけられる。
愛しさに、勇気が溢れて、なずなはその手を控えめに握り返した。
「…少し、時間ありますか?」
「はい」
頷いてくれたフウカの隣で、なずな小さく深呼吸をしてから、スマホを操作し電話をかけた。フウカも固唾を呑んで見守ってくれている。数回のコール音の後、音が止み、『…もしもし』と涼やかな声が聞こえた。少し躊躇うような声は、なずなが惚れ込んだ瑠依の声だ。
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