メゾン・ド・モナコ 71
なずなは自分に頷いて、そっと深呼吸をした。
「良かった…これで心残りはありません」
そう心を決め、明るい表情を繕って顔を上げた。その言葉に、フウカは首を傾げた。なずなはフウカの顔を見れなかった。
「…どういう事です?」
「私は、火の玉の犯人が捕まって、皆さんが人と交流を持てるようになるのが条件でここにいましたから、もう出て行かないと」
「なずなさんは、ここに居るのが嫌なんですか?」
「そういう訳じゃないですけど…」
「…なら、居ても良いじゃないですか」
掠れる声に、なずなはフウカを見上げた。その困惑に揺れる瞳に、なずなの意思も揺らいでしまう。
「駄目です、あなたがいないと。ここに居て下さい」
手を握られ、真っ直ぐに告げられた言葉に、思わずドキリと胸が震えて、同時になずなは困惑した。
「で、でも、」
「もうあなたは、アパートの住人だって言ったじゃないですか!」
フウカの取り乱した表情に、なずなは思いがけず目が離せなくなる。
握られた手が縋るようで、フウカの瞳に戸惑う自分が映る。
「…あなたに、居てほしいんです」
それは、人としてなのか、それとも。
いや、その先は、自分の願望だとなずなは自身に言い聞かせる。けれど、こんな風にまっすぐに見つめられたら、離さないとばかりに手を握られたら、勘違いしてしまう。
良いのだろうか、フウカの隣にいても。
妖じゃなくても、その望みはあるのだろうか。
「…えっと、」
口を開けばその望みが体中を駆け巡り、思いが溢れてしまったみたいだ。言葉では何も発していないが、なずなの顔が突然真っ赤に染まり、それを見たフウカも、はっとした様子で手を放し、つられたように顔を真っ赤に染めた。
「あ、すみません!勝手な真似を、」
「い、いえ!」
慌てて否定すると再び目が合い、二人はまた顔を赤くして、焦って俯いてしまう。まるでお見合いのような空気だが、そのタイミングで、なずなの背中にするりと水が這い、驚いてなずなが振り返ると、その水が美しい人の腕に変わった。それは間違いなくマリンの腕で、気づくとなずなは、マリンに後ろから抱きしめられていた。
「マ、マリリンさん!?」
「なずちゃん、ここを出て行く気?」
ムッと唇を尖らせながらマリンが言う。
その話振りに、初めから聞かれていたのかと気づき、更には、この何とも言えない空気になるまで見届けられていたのかと、なずなは恥ずかしくなった。
だが、今のマリンの瞳は真剣そのものだ。恥ずかしい思いなんてすぐに掻き消えて、なずながマリンの言葉に戸惑っていると、気づけばアパートの住人達が二階に集まっていた。
「でも、私にはここにいる理由が…」
「なら、今から作ろうか。君がいないとこのアパートは成り立たないよ、またいつ人の世から出ていけって言われるか、しれないしね」
春風のおどけるような言葉に、なずなは瞳を揺らした。
まさかの思いに、胸が熱くなってくる。
「…私、まだここにいて良いんですか?」
「不味い飯でも、掃除する奴いないと困るしな」
「お前が居ないと、人との交流なんて出来ねぇし」
「僕はもっとなずなといたいよ!一緒にお花見しよう?」
ぎゅ、と抱きつくハクに、思わず涙が込み上げて、なずなはその頭を撫でながら、ぽた、と涙を零した。
「なずな?どこか痛いの?」
「ううん、違うよ、皆が優しくて…」
「あら、いつでも優しいでしょ?」
マリンに頭を撫でられ、なずなは、うんうんと頷いた。
「私、ここに居ます!もっと皆さんと一緒にいたいです!居させて下さい!」
「…居てくれないと困りますよ」
フウカの優しい微笑みに、更に涙が溢れ出して、なずなは温かな笑い声に包まれて、また涙が止まらなかった。
春風はその様子にそっと踵を返し、一人階下へ降りていく。
手刷りに触れて、壁を伝い、人や妖が集う賑やかなレストランの姿を見て、いつかのメゾン・ド・モナコを思い出す。
レストランから中庭へ出て、ふと、ヤヱとの別れ際の光景が頭に浮かんだ。
**
「私の代になったら、もっと繁盛させるんだ、この店。毎日、常連さんが入り浸って、新しいお客さんもなんだなんだってやって来て」
「町の憩いの場みたく?」
「そう!美味しい料理が評判だけど、お茶だけでも気兼ねなく入れちゃう店。一度この店は終わるけど、また必ず出来る。その時は、あなたも手伝ってくれる?」
「勿論」
「せっかくなら、店の名前変えちゃう?モナコはどう?」
「猫の名前?」
なん、と鳴く白猫が彼女の足元にすり寄っていく。
春風が行く宛てもなく彷徨っていた時、この猫のモナコが近寄って来たので、春風は何となしに頭を撫でてやった。そこへ、モナコを探しにやって来たヤヱと出会った。
春一番の風が吹いて、空に舞う桜の花びらの中、若葉色の着物を着たヤヱが顔を上げる。
「あら、モナコのお友達?」
ヤヱは春風におどけて、そう笑いかけた。着物に桜の花びらが散り、まるで、彼女が春を連れてやって来たみたいだと思った。
春は始まりの季節。春風は、その時感じた通り、彼女から新たな人生を貰った。
春風は、ヤヱと出会った頃を思い返しながら、ヤヱに目を向ける。どんな状況下にあっても、ヤヱの朗らかな笑顔は変わらない。
「そんな名前でいいの?」
「いいの、看板猫のモナコがいるお店。春風に会わせてくれたのもモナコだし、私と春風がいれば、それでここは素敵な場所になるでしょ」
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