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人を信じることは詳細を知ること

最近上司から「細かい話になると面倒になって、知ることや理解することを諦めがち」と言われた。その通りだなぁと思った。

クライアントとなんとなく、大体の話で合意しても、結局そこからは浅い考察しか産まれず、最後提案が通らなかったり。


それに、恋人だと思っていた人には実は他に大事な人がおり、1年弱もの間、同時並行で時間が進んでいたこと。

思い返せば、というやつで、あれもこれも、本当はちぐはぐだったし、噛み合っていなかったように思う。

交際の事実を隠せというオーダーも、「いやぁまさに浮気男のそれ!」と今は思うのに、当時の自分は気が付けなかった。


あそこ行ったここ行った、の、あらゆる思い出を、思い出してみたとて、そっか〜全部嘘だったんだ〜と思って流石に堪えた。笑

心に残る山積みになった嘘の言葉たち。笑


けど、「笑」がつくくらいにはくだらない、「笑」でごまかすくらいには笑えない思い出に成り下がった。



感じた些細な違和感をもっと掘り下げて、突き詰めて、細部まで知りに行くことができていれば、今さらこんな気持ちにならずに済んだかもなぁ、と思う。

わたしは、なんとなく良い、とか、なんとなく好き、みたいなところで満足するし、それで大体ハッピーに過ごす、かなりおめでたい女である。


でも本当は分かっている。

細部まで知りにいけないのではなく、知りにいこうとしていない、ということ。

それには随分勇気がいるから。


上部で合意している状態の心地よさを常に選択し続けることは、わたしにとってうまく生きるコツなのだと思う。
傷つかずに明日を生きていく術なのだと思う。


けれど、大事な人を前にして、わたしはまだそんな適当なコミュニケーションを続けるべきなのだろうか。

詳細を知りにいくことは相手を疑うことではないと思う。

信じているからこそ知りにいきたい、これからは。

(と、思うと元カレのことなど元より信じていなかったのだ、わたしは。)



たった1人だけ、この世の中で悪い人を見つけてしまって、残念なことに世界の見え方が大きく変わってしまった。

性善説で23年生きてきて、まるで世界を味方につけているような気分で闊歩する日もあったけれど、街行く人たちの中に0.0001%くらい、悪人も混じってるんだろうな、とほんの少し疑って歩くようになってしまった。


例えば道端にゴミを捨てる人とか。


2人と1年弱並行して付き合う1人とか。


それでも、この後に及んでも尚、わたしはまだ人を信じたいと思っている。


人に期待をしなければ、裏切られることもない。
きっと傷つくことも少ないだろうし、それが大人になることだという誰かもいた。

でも、わたしはそれでも懲りずに人に期待をかけたい。


そう思うと、簡単に人間不信にはなりきれないくらいに、わたしには傷ついた経験が少なすぎるのかもしれない。 

他でもなく、99.9999%の皆様のお陰で。



それにしてもなかなか無い経験をさせていただいて。

沸々と湧き立つ怒りのエネルギーを使うことすら無駄な気がしてしまうから、さっさとこれも"一つの経験"ボックスに収めようかと。

はたまた感情の引き出しが一個増えて魅力が増してしまったとでも言おうかしら。

そして学びとして、やっぱり親友のアドバイスは聞くべきだと言うこと。こと恋愛においては尚更。
これはメモメモ。




あゝ人生は道半ば。
大人の階段の〜ぼった!


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