見出し画像

【ココ】はじめてポケモンの映画で「お金出して良かった」と思えた日

CHANG(ちゃん)と申します。
38歳、webの仕事をしながら家庭を持ち、日々ひいこら生きている、いい年こいたオッサンです。
大変なご時世となった今となっても、なんとか仕事をいただきながら過ごせています。

14歳の頃に出会ったポケモンがとても大好きで、初代赤緑から始まって今のソードシールドに至るまで、一度も止めることなくファンを続けています。
ゲームも、カードも、アニメも色々観てきました。うわあ。24年て。
そんな僕ですが、今日は【劇場版ポケットモンスター ココ】を観て感じたことを記させていただこうと思い、筆を取らせていただきました。

作品のネタバレは一切しませんが、とても素直に感じたことを書くので、特にポケモンが好きな方にとっては気持ち良い表現ではないかもしれません。ご了承の上読んでいただけると幸いです。
詳しく作品の品評をしたり、過去の作品の知識を並べるのではなく、とても盛大な「僕の感想文」をお届けしますので、生暖かい目で見てあげてください。

38歳の感想文のはじまりはじまり。

●僕にとってのポケモン映画とは

僕が初めて観たポケモン映画は言わずもがな、初代劇場版であり、今ではリメイクもされて特大人気を誇っている「ミュウツーの逆襲」です。のちに完全版などもリリースされ、現代でも多くの方がファンでいるはじめての作品ですが、僕が最初にこれを観たのは映画館ではなく、テレビでした。
当時中学2年生であり、ゲームボーイで赤緑(たしか赤でフシギダネを選んでいました)を買って剣道部の部室でミュウツーサイキネ合戦をしていた僕に、映画館などいけるお金などあるはずもなく。
たしか次回作である「ルギア爆誕」が上映される前にテレビで放送されたのをぼーっとしながら観ていた気がします。

別に泣きもしませんでしたし、「生命がテーマ」なのはなんとなくわかったけれど、「最後に涙でなんでも解決しちゃうなんてなあ」と中2なりに冷めて観ていたのを覚えています。
それだけでした。

それから映画がリリースされ続けた23年間の中で、それこそ10回以上ミュウツーを観ることになるのですが、年齢が上がり少し見方が変わるくらいで、作品そのものを大絶賛することはありませんでした。他に楽しい映画はたくさんあるし、感動する作品には山ほど触れる機会がありましたから。

でも、とても好きな作品でした。
なぜなら、大好きなポケモンの初めての映画だからです。
ポケモンを好きになったその入口となったときの映画だから、思い出として心に刻まれています。僕が亡くなったらお葬式で「風といっしょに」を流してほしい、と思うくらい思い出が詰まった映画でした。

そこから学校の友達とルギアやエンテイを観て、セレビィやラティオスくらいからはポケモン友達ができ、ジラーチの頃にはコスプレして舞台挨拶にいくくらい、ポケモン映画は「毎年の行事」として人生に刻まれていきました。
ところが、ではセレビィやラティオスや、ジラーチやデオキシスが映画として面白かったかと言われたら、今の38歳の僕はもちろん、そのとき高校生や大学生だった僕も、「いや、まあ、映画としてはそんなに」と答えたでしょう。
自分でもびっくりしたのですが、僕はポケモン映画の作品を楽しみにしていなかったのです。
それに明確に気づいたのは、ボルケニオンの頃でした。
多少起伏はあれど、あーなってこーなってこうなるだろ、そんで悪役倒してめでたしめでたしなんだろ、と頬杖をつきながらストローを噛んでいました。
そしてあろうことか、劇中に少しの間眠りに落ちてしまったのです。

起きた自分は愕然としました。
僕は、ポケモン映画を観ているはずが寝てしまったのだ。
楽しみなはずの日を楽しんではおらず、「義務感」で観に来ていたのだ。
そう気づいてしまったのです。

僕にとって、ポケモン映画は「ポケモンを応援するためのお布施」のようなものにいつの間にか変わっていたのだと。

でも、誰もが「はじめてのポケモン映画」となりえる以上、それらに違いがあってはいけないのかなと、思っていました。誰かのはじめてがゾロアークであり、ボルケニオンであるため、もしかしたらずっと同じような映画になってしまうのは、それは仕方ないことなのかなあ、「ポケモン映画とは、こういうものなのだなあ」と半ば諦めていたのが僕の率直な気持ちでした。

もちろん、言うまでもなく作品の見方は人それぞれです。
人によって思い出のタイミングは違いますし、どれかが誰かにとって名作になりえることは真理と言えます。
今までのポケモン映画は子ども向けとして、またポケモンというキャラクターを毎年売り続けるビジネスにおいて必要な形だったと思いますし、そういう意味では、ターゲットが大人まで伸びた今ではポケモン映画に求められる形が変わってきたのかもしれません。
少なくとも、僕にはちょっと半目であくびを噛み殺しながらスクリーンを観ていた時期があったのです。

●ポケモンは誰のそばにもいるよ、という声が聞こえてきた「みんなの物語」

いつものように頬杖をついてストローを噛んでいた僕は、本来「モブ」であるはずのその辺のひとたちが、ポケモンと一緒にいっしょうけんめい奔走する「みんなの物語」を観て(おっ)と思いました。
特別な主人公でなくても、誰かのそばには誰かがいて、あの世界では同じくそこらへんに生きているポケモンが時にはとなりに、時には前から引っ張ってくれたりと「誰でも自分の物語を生きている」という等身大のストーリーが、36歳のオッサンであった自分からすると、「人生感じるじゃん」と面白く思えたのです。

だからといってスタンディングオベーションするほど大絶賛というわけではないのですが、「主人公ではない誰を見ても、それぞれが精一杯生きてる」ポケモン映画はとても新鮮で、テレビで何度か再放送されるたびに流し見の中でもちょっと「くる」ものがありました。

同時に、サトシはとても自由に見えました。
画面の真ん中で身振り手振り伝説ポケモンに語りかけなくていい、その映画の中で「旅人のひとり」として旅人なりの役割を果たそうとしていて、サトシはサトシなのだけれども、世の中のどこかの一人でしかなくなったサトシは、とても別の魅力に満ちていました。

●【ココ】が紡ぐ物語

そこでようやくココの話です。
夏に公開のはずの【劇場版ポケットモンスター ココ】は、コロナの影響で上映が4ヶ月ずれてしまいました。
その間、とてもとても丁寧に売りたかったであろうザルード商品は止まることなく夏に発売され、ポケモンカードではザルードVが静かに降臨するも活躍する間もなく次の弾の波に飲まれて消えていきます。
テレビでは【ココ】のCMが延々と流され、なんとなくのストーリーは脳内で構築できるほどココと触れてきた僕ですが、それでもテーマが「親子」と聞いて、観ないわけにはいかないと思っていました。
※まあでもあーだこーだ言いながら、こいつ一応全作観てます。

親子ねえ。
生き物は食って寝て大きくなってを繰り返し、いつか子を為し育て死んでいく、というのが基本プログラムされています。
食って寝て大きくなってをしていた僕も、今度は横に少し大きくなりながらも結婚し子どもを授かったのですが、プログラムの関係か、生まれてきた「子ども」に対して永遠に溢れてくる愛に自分でも首をかしげていて、(なんなら昔は子ども嫌いだったのになあ)と、「子どもを得た親の気持ち」というものについてここ4年考えていました。

子どもが生まれてからというもの、アクションシーンで子どもが殺傷されるシーンには本気で心を痛めますし、幸せな家庭が何らかの力により崩壊させられてしまうのはとても辛く感じるようになりました。
それは「うんうん、そのつらい気持ちわかる」といった普通の共感との比ではなく、今まででは理解できなかった感情がとても多く理解できるようになったという、「親になったから、守りたいものができた今だからこそ理解できる」という使い古されたセリフが体現されたのだと実感しています。
いくら本を読んでも辿り着けない感情。
涙腺の防御力が格段に落ち、家族を持ち出されるとすーぐ泣き始める。
プログラムのアンロックです。

そんな僕が【ココ】を観てきたのですが、
結論を言うと、アンロックされたバフは抜きにしても
「良い映画を観たな」と思えた、珍しい作品でした。

自分でもびっくりしています。
映画を、感情に「くる」作品を、観れた。
1,800円を、出しきれたと思えたのです。

※実際は前売り券なので1,400円ですが、追加400円払いたい気持ちです。


●【ココ】が僕にとって「映画」だった理由

主人公はココで、サトシは準主人公でした。
そしてストーリーは、もともと思っていたのとそう大きくは違いませんでした。

ですが、そういったストーリーはさておき、作品の中には「みんなの物語」と同様、登場人物のそれぞれの人生が生々しく見え、「伝えたいメッセージ」がとてもダイレクトに感じられたのです。
これがどれくらい良かったかというと、「この登場人物がポケモンじゃなくても、きっと同じ感情を持っていたであろう」ということ。

これは、僕にとって「ポケモン映画を応援していた」という呪縛から解き放たれた瞬間でした。

もちろん、ポケモン作品だからこそ可能な描写もあってそれは素晴らしかったのですが、それより何より僕にとっては「映画として観ることができた」のは、とても大きいことでした。

ザルードの考えていることを、きっとどこかの親になった人は考えていたと思うし、答えが出ないまま生きていることもあるかもしれません。
もし親になっていなくても、「親になるってこういうことなのかな」と思ったり、「うちの親もこう思っているのかな」と思えたり、観るひとの立場が違っていても、メッセージが心に刻まれさえすれば、この作品のことをずっと覚えているのではないでしょうか。仮にそれがポケモン映画であることを忘れたとしても。
それは、「映画の力」だと思います。
僕が大学の頃毎週TSUTAYAで借りまくって観た数多の「映画」の後に芽生えた感情とおなじ。血となり、肉となる感覚。

「ポケモン映画」を観に行ったはずが、「映画」を観ることができたことに、驚きと感謝と尊敬の意を持ちました。

劇場を出た僕は、身を切る寒さに身体をすくめながら、
今朝抱きしめたばかりの息子の手の感触を思い出しました。
ちっちゃくて、弱々しくて、でも色々考えて動かしてる手。
家にいる息子を、今すぐ抱きしめてあげたいと思いました。
まあ実際は仕事の熱い抱擁が待ってたんですけど。

泣くかというと、泣きませんでした。
でも、ちょっと危うかったです。

でも初めて、息子にいつか観てほしい、一緒に観てみたいと思える作品に出会えました。

●普通の大人でも観れる映画【ココ】

僕はポケモンのファンですが、面白いものはおもしろいし、つまらないものはつまらないと思います。
長いポケモンの歴史では、面白いゲームもイベントもあれば、そうでないものもたくさん見てきました。
そういった山あり谷ありを含めてポケモンなのだと思いながら、今後も人生の大半を占めてしまったポケモンと共に歩んでいくのですが、今回言いたいのはそういうことではありません。

【劇場版ポケットモンスター ココ】は、
ただの38歳のオッサンが観てもまあ映画としてなかなか面白かった、特に子持ちにはくるものがある
ということ、です。

もしかしたらポケモンファンである僕の話ですから、多少の下駄は履いてしまっているかもしれません。
でもまあ、考えてもみてください。

今はコロナ禍で色々大変な時期です。
だから、映画館は空いています。
一人でこっそり観に行って、泣いても誰も見ていません。
オッサンが誰にもバレずにポケモンの映画を観に行くには、いい季節だと思いませんか

1,800円くらいのお金を出してがらんとした映画館で1時間半ぼーっとする。
そして、優しい気持ちで家庭に帰れる。

そうなれるのなら、趣味としては安いものではないでしょうか。
旬な話題に乗れますしね。



僕は今回、ストローを噛みませんでした。
代わりに、少し奥歯を噛み締めました。



どうですか、あなたも。



ポケモンも、意外に悪くなかったですよ。





よかったら、どうぞこちらへ。
(座席をポンポンしながら)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?