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【読切版】Change the World 第1章~ダメな自分でも構わない。

「この目で見たものしか信じない」

一見当然のように思えるその感覚が、願望実現の鍵を握っていると知ったらあなたはどう思うでしょうか。
「この目で見たものしか信じない」と言っているのは思考ですが、それが既に矛盾していることに、あなたは気付くことができたでしょうか。

「この目で見たものしか信じない」ということは「目に見えないものは信じない」ということです。
わかりやすく言えば、物質として存在しており実体のあるものは信じるが、物質として存在しておらず実体のないものは信じないということになります。

では思考は物質として存在しているでしょうか?形のある目に見えるものでしょうか?
「目に見えないものは信じない」と言いながら、「目に見えないものは信じないという思考」を信じているのはどうしてでしょう。

「この目で見たものしか信じない」という思考は、ちょっと考えてみると結局は「目に見えるもの(物質)も、目に見えないもの(思考)も信じている」という矛盾を抱えているのです。目に見えるものと、目には見えないもの。果たしてそのどちらを信じればいいのでしょうか。

たとえば、あなたが視界に捉えている映像の中に犬が現れたとしましょう。このとき、もしあなたの思考が「犬だ」と認識しなかったらどうなるでしょう?
不思議に聞こえるかもしれませんが、その犬は存在しないことになります。

では「犬」という認識がなければ何が存在することになるのでしょう。「何かの動物」でしょうか。では「何かの動物」という認識がなければ何が存在することになるでしょう。「何か動くもの」でしょうか。では「何か動くもの」という認識がなければ...。

このことが何を言わんとしているかというと「目の前に広がっている映像は、自分がそれを認識しなければ何も存在できない」ということです。
映像を「自分」が見ているとき、人はそれを現実と認識しているのです。

鏡をみると「自分」は見えるでしょう。けれど、鏡の中にいる者を「自分」としている根拠まで見えるでしょうか。そして「自分」の思考は目に見えますか?鏡に映った何かを「自分」としている根拠は何なのでしょう。そしてそれは誰が決めたものなのでしょうか。

「自分」という認識の根拠も、その「自分」が考えているはずの思考も、目には見えない実に曖昧なものなのです。少し妙に聞こえる言葉ですが「自分」というものは「自分」が思っているほど確かなものではなく、目には見えない認識が作り上げた曖昧なものだったのです。

まだ合点のいかない方は次の質問をしてみてください。
「もし自分がいなくなったら現実は存在するだろうか?」
シンプルにあなたがこの世からいなくなってしまった、つまりは死んでしまったと仮定してください。そのときあなたの現実は存在するでしょうか?

少々不謹慎な例えではありますが、こんなケースで考えてみましょう。あなたは苦しみの果てに自ら命を絶つことに決めました。
あなたは心の中でこう呟きます。
「いっそのこともう死んでしまおう。そうすればもう何も考えなくていい。もう苦しまなくていい。今日でこの辛い現実を終わりにしよう」

この世を去る準備をしながら、これまでの人生が走馬灯のように頭の中を駆け巡り…。と、そのときあなたにふと素朴な疑問が湧き上がります。
「ん?ちょっと待てよ?そういえば当たり前と思ってたけど、どうして自分が死んだら辛い現実が終わることを知っているんだ?一度も死んだことがないのに…」

そうです。人は誰でも最初から知っているのです。自分がいなくなれば現実もなくなるということを。それは裏を返せば「現実は自分がいるから成立する」ということであり、もっと言えば「自分が現実を作り出している」ということを知っている証拠でもあります。

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