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【連載版】Change the World 第27話〜願望から意図へ

あなたの願望は叶ったらそれで完結なのでしょうか。いま抱いているその願望が完結しても、きっと続きがあるでしょう。例えば、プロ野球選手が夢だったとします。プロ野球選手になったら夢は叶ったことになりますが、願望はそこで終わりでしょうか。きっと次の夢は個人タイトルを獲ることだったり、そのチームで優勝することだったりするでしょう。

そうであれば、プロ野球選手になったのは通過点に過ぎません。そのように、人生はいつでも途中経過であり未完なのです。あなたの肉体が消滅するそのときまで完結というものはありません。瞬間ごとに絶え間ない変化が起こり続けるもの、それが人生です。人生が完結するまで、全ての出来事は途中経過なのです。

全てが途中経過ですから、結末は「わからない」のです。今この時点で「したいこと」を「出来ない」と判断することはナンセンスです。「出来るか出来ないか」という判断をする思考が出たら、答えはいつでも「わからない」です。結末を見るまで本当にわからないのですから。

したいことがあるときに「出来るか出来ないか」、なりたい自分があるときに「なれるかなれないか」。単純なこの二択のうち「出来ない」「なれない」を選ぶのはなぜなのでしょう。なぜそんなことがわかるのでしょうか。そして、絶対にそう言い切れるのでしょうか。「出来る」「なれる」の確信がないからそう言っているだけではないのでしょうか。

「出来ない」「なれない」その思考が浮かんでくること自体は仕方のないことです。思考は勝手に浮かんでくるので、どんな思考が浮かんでくるかは選べないのです。ただ、浮かんできた思考を採用したり、承認や追認をするのはあくまでも自分です。

こう考えるとわかりやすいかもしれません。頭の中では会議が行われています。これからしたいことや、なりたい自分についての会議です。そこで「出来る、なれる」派と「出来ない、なれない」派の討論が行われています。このとき、あなたは議長であり最終決定権者でもあります。

「出来ない、なれない」を支持する理由はなんでしょう。なぜそれを採用してしまうのでしょう。それが「出来ない、なれない」となぜわかるのでしょう。そして、そもそも「出来ない、なれない」を採用することのメリットはなんでしょう。

「出来ない、なれない」の具体的な理由や根拠を聞いているのではありません。単に「出来ない、なれない」を採用することにメリットはあるのかどうかという話です。現実的な可能性の話ではなく、利点はなにかです。

確かに「出来る、なれる」と言い切れるほどの積極的な根拠はないかもしれません。かといって、「出来ない、なれない」と言い切ることもできないはずです。出来るか出来ないかはわからないのですから、決めつける必要はあるでしょうか。

願望として持った時点で「出来ない、なれない」が前提であることに気付かなければなりません。極論に聞こえるかもしれませんが、願望を持っていることは不可能を持っていることと同じなのです。だから願望を手放すのです。願望を手放すのと不可能を手放すのは同じことなのです。

願望を持つことは不可能を示唆することと同じだし、そもそも可能不可能の議論が浮かぶこと自体、不可能を示唆しているのと同じです。例えば、歯を磨くということに対して不可能が示唆されることはないでしょう。そして、出来る出来ないの議論すら起こらないでしょう。

このことから考えてみると、不可能が示唆されず、可能不可能の議論が起こらないから歯を磨けるとも言えます。何を大袈裟なことをと思うかもしれませんが、一事が万事そのように「出来る、なれる」が決まっているとしたらどうでしょう。

不可能が示唆されたり、可能不可能について議論が行われているうちは「したいこと」は願望の形のまま存在することになります。願望とは不可能要素があることを認識している状態と言えます。常に不可能要素を抱えているため「今は出来ない、なれない」が基本となります。万物が瞬間ごとに変化しているのに、願望だけは置き去りにされたように停滞してしまいます。

それはあなたの言葉からも確認できるはずです。「したい、なりたい、実現したい」。裏を返せば「したいけれど出来ない」、「なりないけれどなれない」、「実現したいけれど、実現できない」何らかの要素があるということです。その不可能要素を抱えているため、すぐに「しよう、なろう、実現しよう」とならないのです。

歯を磨くことが「歯を磨こう」で済むのは不可能要素がないからです。不可能要素のあるなしは「したい」なのか「しよう」なのかで判別可能です。仮に歯を磨くことに不可能要素があるとします。シチュエーションとしては、手元に歯ブラシがないとか、水がないといった場合です。

そのときは歯を磨きたいが今は出来ないため「歯を磨きたい」となります。家にいて歯ブラシが手元にある状況では不可能要素がないため単純に「歯を磨こう」です。したいことが「したい」という希望なのか、「する」という確定なのか。「願望」と「既に叶っている」の境目はそこにあります。

そこで素朴な疑問なのですが、今できないことはいつできるようになるのでしょう。いつか出来るようになる日を願うのが願望なのでしょうか。当たり前のことですが、どこかのタイミングで出来るようにならなければ、いつまで経っても出来るようになりません。「自分には出来ない」が「自分にも出来る」にならなければ、同じ状態が再生産され続けることになります。

「自分には出来ない」が「自分にも出来る」に変わったときに願望が実現するとしたら、そう認識するためには何が必要となるのでしょう。「したいこと」があるときに浮かぶことは二つしかありません。「自分にも出来る」か「自分には出来ない」かです。

最初は「自分には出来ない」と認識していたことでも、何らかの手応えを感じる映像を見ると「自分にも出来る」に変わっていくことはよくあります。では、その手応えを感じる映像を偶然見ることが出来るまで、実現を待たなければならないのでしょうか。

その手応え映像は見られるかどうかわかりません。それを見なければ「自分にも出来る」と認識できないとしたら、全ては偶然に頼る他なくなってしまうでしょう。実現と非実現の境目は「自分には出来ない」と「自分にも出来る」の単純な認識にあるとしたらどうでしょう。もしそうだとしたら「自分には出来ない」という認識はあなたにとって必要のあるものなのでしょうか。

辛い現実を現実と判断するから苦しくなり、豊かな空想を空想と判断するからまた苦しくなります。真偽の判断は何も生みません。自分にとっての是非で判断するといいのです。真偽のほどはともかく、自分にとっての是非です。

お金の問題で例えてみます。「そのお金が払えるか払えないか」は真偽の判断であり、「そのお金が払えた方がいいのか払えない方がいいのか」は是非の判断です。一般的に「払えるか払えないか」は現実的な見解とされますが、そうではなく「払えた方が気分がいいのか、払えない方が気分がいいのか」という視点で判断を行います。現実的ではなく、心情的な判断です。

こういう言い方もできるでしょう。「出来るか出来ないか」ではなく「したいかしたくないか」。願望を持っていることが辛いのは「したいけど出来ない」からです。よって、「出来るか出来ないか」という可否の判断は行わず、「したいかしたくないか」の判断とします。

願望は「したいけど出来ない」状態であることが苦しいのですから、後半の「出来る出来ない」の判断を外します。そうすると前半の「したい」という判断が残ります。そこで止めておけばいいわけです。大概の場合は「でもどうやって?」という「出来る出来ない」の判断がすぐに出てきますが、何度も言っている通り出来る出来ないはあなたが決めることではありません。よってその判断には意味がないのです。

一方、したいかしたくないかはあなたが決めることです。あなたは自分が決められることだけを決めればいいのです。出来る出来ないの議論にあなたは参加することが出来ません。参加してもいいのですが、あなたの意見は世界に対してほとんど効果はありません。世界の中の一人の人間の意見に過ぎないのです。

あなたは自分の目の前に広がる世界を見て現実を認識しています。ところが、あなたは世界を変えることは出来ません。そうだとするなら、あなたは現実を変えることも出来ないし、大袈裟に言えば人生を変えることも出来ません。なぜなら人生とは、世界を認識した記憶の集積だからです。

ではあなたには何が出来るのでしょうか。あなたに出来ることは感情を感じることです。そしてそれが好ましいか否かを判断することです。逆に言えば、それ以外のことは何も関与できません。

では、お金が欲しいという願望を例えに話を進めましょう。どうしてお金が欲しいのでしょうか。目的はそれぞれ違うかもしれません。借金や滞納しているものを支払ってスッキリしたいからかもしれないし、単純に欲しいものを買うためや、してみたいことがあるのかもしれません。

いずれにしろ、あなたは支払いたいからお金が欲しいのです。支払いたいけれど今のままでは支払えないから欲しいというわけです。願望とはどういう状態かという話を覚えているでしょうか。願望とは「したいけど出来ない」状態のことをいいます。支払いたいけれど支払えないは、まさに願望の状態というわけです。

支払いたいけど支払えない、したいけど出来ない。後半部分の出来る出来ないの判断を自分でするなという話をしてきました。それは自分にはどうしようもないことだし、わからないことであるからです。ならば、願望から出来る出来ないの判断を外してしまいましょう。そうすると「支払いたい」、つまりは「したい」が残ります。これが意図です。「できない」が外れると願望という形ではなくなるのです。

世界をどう変えるかではなく、どんな自分を世界に置くかです。

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