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【13年越しの初タイトル獲得】感動のサクセスストーリー!?ルクセンブルグのスーパースター!ジレ・ミュラーのヒストリー#47

皆さん、こんにちは。
「Change Court」記者のtakableです。

 この記事ではテニス選手個人にフォーカスを当てて選手のヒストリーやエピソードについてご紹介していきたいと思います。
 「ミュルズ」の愛称で呼ばれている、ルクセンブルグ人のジレ・ミュラー選手についてご紹介です。この記事では、「日本は小さい国だし世界は無理でしょー!?」という仮説に対して、「小さい国からでも世界で活躍できるの?」という疑問に対して皆さんと検証します。
 今回から小国のレジェンドを3名特集していきます。今回はミュルズが今までどのようキャリアを歩んできたのか、どのようなサポートを受けて成長をしてきたのか振り返ってご紹介していきたいと思います。(2021.08.24現在)

※記事をより簡単に読んでいただくため表記に独自のルールを利用しています。

ジレ・ミュラー
左利き特性を活かしたスライスサーブで攻撃を組み立てポイントをゲットしていく選手。アドサイドのセンターのサーブと逆クロスのフォアハンドの展開が素敵。サッカーとバスケットボールが好き。


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ルクセンブルグ

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 ルクセンブルグは面積・人口ともに世界的にみても小さな国です。国民の半数が違う国からの移民で、多文化多民族が居住しており開放的な国です。
 スポーツでは、人口が少ないことも影響し、団体競技で国際大会を勝ち抜くのは難しくいですが、自転車競技が盛んです。また、その他の国で代表になるのが難しい選手がルクセンブルグに帰化することで、オリンピックや国際大会に出場する選手もいます。


「5歳でテニスを始め、16歳でパリへ留学!」

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ジュニア期のミュルズ

 1983年5月9日ルクセンブルグのルクセンブルグ市で郵便局員の父と主婦の母のもと生まれました。5歳から近所のテニスクラブでテニスを開始し、14歳の頃にルクセンブルグで行われた国際大会でジュニアの国際大会で国際大会デビューしました。
 1998年11月までに3つの国際大会に出場しましたが、3戦共に1回戦負けという結果でした。当時のルクセンブルグにはスポーツ選手になるための施設・人材が乏しいことを理解し、1999年16歳でP.ムラトグルーがコーチを務めるパリのアカデミーへ留学をしました。
 1999年以降はジュニア期には30大会に参戦し初戦敗退は4回のみで、2001年9月にGS・Uで優勝し世界ランキング1位を獲得しました。ジュニア期の成績は33大会出場で81勝29敗(74%)を記録しました。


「19歳で拠点をバルセロナへ!22.2歳で59位へ!」

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キャリア初期のミュルズ

 キャリア初期19歳〜22歳の頃は、拠点をパリからバルセロナの、サンチェスカサルアカデミーへ移動しました。キャリア初期として活躍したのは22歳の頃でした。2004年8月ワシントン250でA.ロディック[6]を破って初のツアー決勝戦へ進出、6月GS・WではR.ナダル[3]を下し、2005年7月ロサンゼルス250では決勝戦でA.アガシ[6]に敗退しましたが、この1年間で2度のツアー決勝へ進んだことで、59位を獲得しました。
 

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「キャリア中期〜35.3歳引退!」

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33.8歳シドニー250でツアー初優勝


 24歳~26歳の拠点はフロリダのパワーワールドテニスアカデミーに拠点を移動し、2009年27歳からはルクセンブルグに戻りました。
 2009年6月(26歳)GS・W以降は膝の怪我でシーズン全休、2013年5月(30歳)のGS・F以降シーズン全休し、復活しては怪我を繰り返しました。
 
 2016年6月スヘルトーヘンボス250で2012年7月以来の決勝に進出ました。翌月の7月ニューポートでも決勝に進出しましたが、ここでも敗退し、ツアーの決勝進出5試合で5連敗となり、TOP50位以内に入る選手で唯一タイトルがない選手でした。

 その状況を変化させたのは、2017年のシーズンでした。7月31日に自身のキャリアハイ21位を34.1歳で達成しました。2017年1月シドニー250でD.エバンス[67]を下し初のツアー優勝を33.8歳で獲得、5月エリストル250では決勝進出、6月スヘルトーンヘンボス250でA.ズベレフ[10]、I.カルロビッチ[24]に勝利しツアー2勝目、ロンドン500でJ.ツォンガ[10]を倒しSF、GS・WではR.ナダル[2]にGS・Wで2度目の勝利をしQF、7月アタランタ250でSFに進出したことで21位を達成しました。その後9月メス250以降は左肘の怪我によりシーズンを終えました。

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 2018年のシーズンは1月ブリスベン250から復帰しましたが、2月のソフィア250まではQF以上に進こともできましたが、ロッテルダム500以降の13大会で1回戦負けが4回、2回戦負けが9回でした。7月GS・W2回戦でP.コールシュライバー[27]に敗戦したことで、2018年7月14日35.2歳で2018年のシーズンで引退を宣言しました。
 最後の大会は、8月GS・Uでラッキールーザーで本戦入りしたL.ソネゴ[121]に初戦敗退で35.3歳でテニスのキャリアを締めくくりました。

 ミュラーは、人生が常に二度目のチャンスを与えるという真実の素晴らしい例です。彼の成功は、逆境と恐れを克服し、粘り強く、一貫性あるトレーニングを行い続けた結果、最高のサクセスストーリーとなりました。
 
 ルクセンブルグで、自分よりも活躍選手がいないことや、世界で活躍するためにパリ、バルセロナ、フロリダと渡り歩いて成長をしてきました。度重なる怪我にも負けず、33.8歳で初めてツアータイトルを獲得しました。決して遅咲きではなく、コンスタントにいい成績を残し続けながらキャリアハイ34.2歳を達成した苦労人です。
 映画のような、完成されたサクセスストーリーで幕を引いたミュルズですが引退後は、家族とゆっくりルクセンブルグで過ごすそうです。
 近い将来ルクセンブルグ代表のコーチとなって故郷のテニス繁栄のために貢献している姿を期待しています。ミュルズの第2章はどのようなストーリーを描いていくのか楽しみにしています。
 

記録
✴︎ルクセンブルグ出身者で最も高いランキングを達成(2017年7月21位)
✴︎2017年GS・Wに予選から参加し、本線でR.ナダル[2]にフルセット4時間48分、最終セットは15-13で勝利。
✴︎2016年ロンドン500の2回戦、J.イズナーとの試合で10回のマッチポイントを防いで勝利。(2016年で最もマッチポイントを防いだ試合)

 今後もこのような記事をあげていきますので、もしよかったよ〜という方は是非note内の「スキ」や「記事の保存」をお願いします。
 この選手の記事を読んでみたい!調べてほしい!というご要望ありましたら、お気軽にご連絡ください。それでは次の記事で。さようなら。



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PS.国内のテニスクラブと3つの外国のアカデミーを巡った経験談を伺いたいです!

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〜CC(Change Court)について〜
 CCは、テニスのジュニア育成に関する問題や課題を解決していくための考察記事です。
 「うちの地区こんな問題があるんですが…」、「これは正しいのかなぁ!?」、「これってどうしたらいいでしょうか?」そんなテニスのジュニア育成に関する悩みや課題を解決できるきっかけを皆さんと一緒に考察します。
 

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