解けていく記録。

最近あったあるニュースから、自分が今この世界に立って生きていることに対して、違和感というか、感じる何かが生まれた。

そのニュースは私にとってある意味、心の中の何かひとつが解れたような気がして、良いニュースではないことは分かっているけど、彼の顔が頭に浮かぶと、感謝の気持ちが勝手に沸いてくる。

その解れた何かとは、私の存在のあり方、つまり、生きている私と死んでいる私を天秤にかけた時に分かることだ。

どちらに傾くかってことを考えた時、生きている私の方に傾く確率を考え始めた。

そしたら、思っていたよりも確率は低い。
むしろ、あれ?反対に傾くんじゃない?とも思って、そんな天秤を見ながら、まぁそんなもんだよなと、意外にも冷静でいた。

側から見たら奇妙かもしれないけど、安心したり、心が落ち着いたのだ。

死が私の方に近づいてくれたのを、肌で感じた。

この死というのは、私の普段の日常の中では感じないもので、とても大きな影を持っているから、なんだか圧倒されて、大物芸能人を目の前にした気持ちだ。

だって、今私の手元にある自己啓発本。これに書かれている"ワークライフバランス"という横文字の言葉だって、死の前では、かなわないような気がするでしょ?

そう思い始めると、中途半端な量の「生きる」が私の腹の底にあるってことに、昨日気づいた。

なんでそう思い始めたのか。それを追求しようとした。

ってことは、やはり、今日まで歩いてきた人生を辞めるってことに対しての未練はあるってこと。


「未練タラタラ」って本当に嫌な言葉。


これだから辞めたくなる。


1番の理由は、人間を表と裏で捉えた時に、死という文字は、最も目に入りやすい表の部分、すなわち、顔やおでこに書かれているようなものだと思ったから。

みんな書かれているんだから。

そう思ったら、「あなたの本当に好きなものはなに?」とか、「心の底から嫌いなものはなんですか?」と聞いて回るのが、馬鹿馬鹿しく思えてきたのだ。

ほんとも嘘もなにもない。

今まで私が求めていた"ほんとうのこと"は、なんだったんだろう。

これが、「あー中途半端だなぁ」って呟いてしまう理由。


そりゃ呟いてしまうさ。


自分に対して優しくなれる瞬間は、ここにあったのかと思った。

そして、また、生きていくことに矢印が向いた時には自分に対して厳しくなり、また、優しくなるという繰り返しなのかな。


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