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UberEatsが格差を広げる!?

UberEatsを利用したことがありますか?

おそらくコロナ禍の今、多くの人がUberEatsを頼りにしている。玄関でお金の支払いや、お釣りの受け取りなどの煩わしいことがなくて、とにかくスムーズで便利だと知人たちは言う。運んできてもらえるお料理の幅が広いのも魅力のひとつだとか。普段行きつけのレストランの料理はもちろん、タピオカ・ドリンクだけでも持ってきてくれる。実際、タピオカ・ドリンクの注文は多いそうだ。

しかし、私は絶対にUberEatsを使いたくない。

なぜって、考えてみてほしい。配達員は感染のリスクを冒しながら、あなたが食べる物を運んできてくれるのだ。あなたのタピオカは、他人の健康をリスクに晒してまで運ばせる価値のあるものですか? そう私は世に問いたい。

私をモヤモヤさせるのは、感染のことだけではない。UberEatsのシステムそのものにも、疑問を抱く。配達員はレストランに雇われているわけではなく、店と個人宅を仲介しているUber社に雇われている、いわば派遣スタッフだ。私も派遣会社で働いたことがあるから分かるが、週替わりで違う会社のオフィスに行けと命じられる。そんな具合に、この家、あのマンションと、一日中ぐるぐる自転車やバイクで食べ物を運んでいるのだ。

しかもUberEatsの被雇用者には労災がおりないという。今、まさにコロナ需要ともいうべきスタッフの多忙ぶりに交通事故なども起きていて、労災を備えてくれとスタッフからの要望が出ている最中だ。給与をめぐってUberEatsの被雇用者たちが、企業に訴えを起こしたこともあった。一回のデリバリーで得られる収入はわずか500円。その中から引かれる税金をめぐって、訴えが起きた。それは話し合いの末、解決したが、今でも一回500円の賃金は変わらない。

そんなことを知ってしまうと、「タピオカを持ってきて」なんて、私はとても言う気にはなれない。タピオカ一杯の料金よりも安い賃金で自転車に乗り、感染のリスクと戦いながら家に来てくれると思うと、二の足を踏む。 UberEatsが繁盛することで、格差社会が固定化されるような気がするのは、きっと私だけではないだろう。ニューヨークの駅構内で、一回5ドルでお金持ちの靴磨きをするアフリカ系のお年寄りや、日給3000円で丸ノ内のオフィスビルを掃除するベトナム人女性労働者など、格差は世界中のあちこちにある。それが世の中なのだから、いいじゃないかという声もあるだろう。しかし、コロナは今始まったばかりで、これまで普通に暮らしていた人たちが転落し、いつ再び普通の生活に戻れるのか予想もつかない。新しい時代が確実に始まったのだ。そんな今、タピオカを他人に運ばせることができる身分でいることは、果たして喜ぶべきことなのか、それとも……。

人間とは何か? 社会とはどうあるべきか? そんな本質的な問いと日常的に向き合う時代がやってきた。人通りの少ない大通りを疾走するUberEatsの自転車を眺めながら、食べること、という最も日常的な部分から、世の中を見つめ直していきたい思った。

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