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カメラが怖くなった日のこと 後編


こんな話をせずに、笑顔でカメラの前に立てたらどんなにいいか。

私もそう思う。

あるいは、こんな部分をさらけ出さないで、
笑顔でファンの前に立っていたほうがみんな幸せだろうな、とも思う。

でもなんか、リアルじゃないじゃない?
たかだかTwitterフォロワー4000人の私が、
リアルじゃないとも思ってないけれど、
私は私を包み隠さず生きたいと思う。

さてと続きを、きいてください。

その動画が公開される日、私は怖くてたまらなかった。
またきっと、思ってもいない解釈をされて、
とがった言葉が降ってくる。
他のメンバーには1つとしてこない、悪意のあるメッセージが飛んでくるだろうな。

19時になった。

…見れなかった。

それでも、なんてことないふりしてコメントは書いた。

自分でも見られない動画を、
人に見てくださいなんて、
ごめんね、私はそういうときもあった。

「なんかなっちゃん、今回評判よくない?」
「ほらなんか、褒められてるよ」

公開からしばらくして、動画を見てくれている友達が言った。
そんなわけないよ、と恐る恐る画面を見た。

「菜摘ちゃんの声がいい」
「めっちゃ似合ってる」
「表情もよくなったんじゃない?」
「○○~って歌ってるところが好き」

あ、ほんとだ。しかもそのコメントも数人から高評価を得たりしている。
ちょっとごめん、
恥ずかしいんだけど、泣いちゃいそうだよ。

こんなの、些細な言葉だと思うでしょう?
当たり前にもらってると思うでしょう。
でも、私にとっては宝物だった。


だって、ちゃんと、私だったから。

その動画にうつる私が、アーティストとして、表現者として
ふさわしいかと言われれば、全くそうではないけれど、
そこにうつるのは、紛れもなく、“私”だった。

四方八方から迫りくる言葉たちから逃げるのに必死で、
自分がどうしていいのか、
わからなくなってしまっている、私。

それを受け止めてくれた人たちがいたことで、
なんだか肩の力が抜けた。
これでいいんだ、と思った。

目なんて小さくても、カメラなんて必死で追わなくても。
“私”はちゃんと、伝わる。


深夜、ベッドの中、誰に見られることもない暗闇で、そっと見たコメント欄。
私だって、全てを肯定してほしいわけではない。
人の意見をもらってはじめてわかることもあるし、
色々な視点からみられて、
人は成長すると思う。

だけれども、やっぱり人の前に立つ以上は、受け入れられていたい。
愛されていたいな、と思うんだ。

だからこそ、背伸びをして、自分以上の自分を演じようとしてしまったけれど、
そんな嘘、画面越しじゃもっと簡単にばれちゃうよね。

その動画からは、自分らしく、もう何も気にしないで、
私が表現したい自分を、曲を、世界観を、しっかり伝えようとすることにした。

ずっと見てくれている人なら、もうそれがいつのことかわかるんだろうな。


最近はもう、カメラの前で嘘をつかずにいられる。

相変わらず、けして得意ではないけれど、怖くて泣きたくなることはない。
今日の失敗も笑顔で振り返れるし、
たまに来る厳しいコメントも、
そうだよね、そう見えちゃうよねって
受け止められる。

ライブでなんて、むしろカメラに写って思い出を残したいくらいだし。

かくして私は、カメラが怖くなくなった。

誤解しないでほしいのは、相手の嫌なところをびしばしコメントしたら、
相手がめげて直してくれるよっていう話ではない。
はたまた、悪意のあるコメントたちを許さない、っていう話でもない。
これを読んで、カメラの前で足が竦む誰かが、ちょっとでも笑ってくれたらうれしい。

深夜に私のnoteまで読んでくれるあなたがいるから、
私は私をちゃんと取り戻せた。
めちゃくちゃありがとう、誰よりも感謝している。

でもほら、皆が知っているように、
私はすぐ泣いちゃうことがあるかもしれないけれど、
それでもこの宝物があるから大丈夫。
これからも前に進むね。


それではまた、なっちゃんねるでお会いしましょう。

またね。


菜摘

音楽活動の足しになります、執筆活動の気合いになります、よかったら…!