ぱっと見で矛盾っぽいものの正体がわかりました
「外見だけで人を判断してはいけない」というのは、例えばこの人はブサイクだから性格もパッとしないだろう、というように外見の要素だけで内面を決めつけてしまうのはよそうね。という考え方ですね。
それに対して、本当に外見だけで人を判断してはいけないのか?という疑問が湧きます。
例えば、暗くて狭い路地で、対面から包丁を持っている大柄で筋肉ムキムキの全裸の男性が歩いてきたとします。もしそんなことがあれば、外見だけで判断をしてはいけない!などと考える余裕はないでしょう。
「外見だけで人を判断してはいけない」という考え方を否定することは、現代社会においてはナンセンスでしょう。しかし、「外見だけで人を判断しなければならない」状況があることもまた事実です。
この矛盾した考え方を、一体どのように飲み込んでいけば良いのでしょうか。
それぞれの考え方について、もう少し深掘りして考えてみます。
「外見だけで他人を判断してはいけない」
この主張は、端的に言い換えれば「偏見を持つな」ということです。
偏見を持つとは、男だから野蛮だとか、女だから弱いとか、外見の要素をステレオタイプに紐づけて受け入れてしまうことで、本来の人格とは異なる認識を持ってしまうというような状況です。
つまり、「偏見を持つな」というのは、そういう安直な人格の決めつけは良くないよねと言っているわけです。
「外見だけで人を判断しなければならない」
というのは考え方が真逆ですから「偏見を持て」ということになります。
偏見を持つ。というと聞こえは悪いですが、そもそも人間は偏見を持つようにできています。
先ほど全裸マッチョ包丁男を例に挙げましたが、その状況は何かといえば「命の危機」そのものです。
そんな状況で「偏見」を持てずにそのまますれ違ってしまうような人は「危機回避能力に乏しい」わけですね。
そして、「全裸マッチョ包丁男」が「命の危機」の象徴として表現しましたが、何の違和感も持たずにここまで読み進めている方は、紛れもなく「偏見」を持っているわけです。
「全裸マッチョ包丁男」の危険性を、その言葉から理解できる外見的特徴のみで自分勝手に判断しているということです。
これは当たり前の話で、偏見を持てない人は危機回避能力に乏しいわけで、つまりそんな奴はさっさと死んでしまう可能性が高いんです。
長い生物の歴史の最先端にいる僕たちは、さっさと死なないように「偏見」という盾を身につけ、過酷な自然界を生き延びてきた者の末裔ですから、本能的に命の危険を避けるようプログラムされていると考えるのが自然でしょう。そうでない奴はさっさと退場してしまうわけですし。
話を戻します。
つまり何かというと、「外見だけで人を判断してはいけない」というのは、理性的な判断である。逆に、「外見だけで人を判断しなければならない」というのは、本能的な判断である。ということです。
別の言い方をします。
はじめに「外見だけで人を判断しなければならない」と、自然に考えます。次に「外見だけで人を判断してはならない」と、道徳的に考えます。
この矛盾した考え方というのは、はじめに感じる本能的な考え方と、それに付随して(二次的に)発生する理性的な考え方が対立しているという構造になります。
本能的な考え方があるからこそ、理性的な反抗が生まれる(そもそもはじめから偏見がなければ偏見を無くそう!という考えには至らないはずだから)というわけですね。
さて、これで矛盾した考え方の双方の解像度が高まり、矛盾が生じる構造も把握できました。
じゃあ結局、どちらが正しいのかというと、どちらも正しいですね。
本能的な判断は、生き延びるために必要。
理性的な判断は、社会性を守るために必要。
社会的な動物である人間にとって、社会性を守ることは生き延びることと同義ですから、いずれも命を守るための考え方であることに変わりはありません。
そして、本能100%に振り切って、社会性のない人間になっても、理性100%に振り切って、命の危険に簡単に晒されても、うまく生きていける気がしませんね。
それぞれをいい塩梅で使い分けられることが、生き延びる上で有利に働くのだと思います。
であれば、自分は本能的な偏見を持っていることを自覚する。自分の中の考え方の矛盾を受け入れる。その上で可能な限り理性的な判断を心がける。という風に、矛盾と「付き合う」ことで、より気持ち良く生きていける気がしますね。
ぱっと見で矛盾っぽいものの正体は、本能と理性、それぞれの立場から命を守るための正義の押し付け合いでした。
この前、ふとこんなことを考えて、矛盾したものについても双方の理解を深めることで見え方が変わってくるんだなあと、思いました。
何でも貫く矛と何でも防ぐ盾にも、それぞれに深い背景とかあるのかなあ。