【小説】左手屋

『左手屋』なんて不気味な店名からして、もっとおどろおどろしい見た目の商品が出てくるものだと思っていた。俺は今、薄暗い店内のカウンターにごろんと置かれた左手を見ている。左手というより、左手の形を模したゴムの塊か。
「レンタル期間はいかがなさいますか」
「あー……えっと」
左手の横にある料金表に目をやる。48時間から……2万円!思わず顔を料金表に近づけて注視してしまう。
「じゃ、じゃあ、一番安いので」
「かしこまりました。48時間ですね。」
店員の若い男は営業スマイルをこちらに向けた。ただ、如何せん薄暗い店内に店員の完璧なほどの柔らかい笑顔が相まって少し気味が悪い。
「現在が7月1日の23時ですので、貸し出しは7月3日の23時までとなります。返却は貸出期間が終了後、いつでも構いません。それでは、またのお越しをお待ちしております。」
店員の後ろで、二メートルほどの大きさをした置き時計の振り子が、ゆっくりと揺れていた。

返却期限がないレンタル店など聞いたことがないが、商品がこれなら納得できる気がする。ライターの仕事に就いて約15年、様々な形態の店を取材してきたが、ここまで潔い悪徳商法には出会ったことがなかった。しかし調べてみると移動型店舗として長々とやっている店らしい。このガラクタに、何か魅力が隠されているのか?店名の印刷された紙袋の中では、風呂敷のような布で包まれたゴムの塊が俺の右腕に重みを伝えている。

この依頼を受けたのはほんの一週間前のことだった。ライターとして働く俺が上司からこの店の情報を聞いたとき、あまりにも謎に包まれた商売に興味を惹かれた。日本各地を回り、ゴムでできた左手を高額でレンタルする。当然のようにホームページすら存在しないこの店の調査は、実際に足を運んで利用してみるしかなかった。その結果がこれだ。48時間2万円。経費で落ちるとしても、もっと良い経済の回し方があるはずだ。

マンションの鍵を開け、電気を点ける。取り込んだままの洗濯物と後で洗おうと思っていた食器が俺を迎える。中年男性の一人暮らしなんてこんなものだ。とりあえずキッチンカウンターの上に紙袋を置いて手を洗う。
そのとき、ごん、と音がして慌てて音の発信源を見る。不安定なところに置いたからだろう、紙袋が倒れて落下してしまっていた。横倒しになった紙袋から風呂敷が、そして風呂敷の隙間から左手が覗いていた。
「ひっ」
上ずった声が出た。風呂敷から覗く左手が、あまりにもリアルに見えたからだ。タオルで手を拭いて、恐る恐る近づく。
「う、うわあ」
そこにあったのは、少し骨ばった指に薄いピンク色のマニキュアをした、女性の左手だった。

気味が悪い。それが最初の印象だった。しかし二日間避け続けて真っ白な記事を提出するわけにもいかないので、汚物を触るような手つきで風呂敷を開く。出てきたのは、やはり青白い女性の手。手首の関節の少し先から切断されたかのような、人間の手だった。俺は夢を見てるのか?さっきのゴムの塊は?
必死に1時間前の記憶を辿る。店員がゴムの塊を包む。それを紙袋に入れて渡す。「またのお越しをお待ちしております。」店員の向こうで異様に大きな置き時計の振り子が揺れる───

あれだ。きっとあれが催眠術かなにかの装置だったのだろう。そして俺は今起きながらも夢を見ているような状態なのだろう。風呂敷の上に鎮座する左手を眺める。あれ。
左手の手の甲、斜め左下あたりに、ほくろがあった。ほんのりピンクに染まった爪は縦と横の比率が同じくらいで丸っこく、まるで。
『花びらみたいな爪でしょ』
『そんな、ロマンチックな』
古い記憶の蓋がギシギシと音を立てて開いた。
「翔子」
震える声で呟いた俺は、翔子の左手に自分の右手を重ねていた。

退院したらすぐにプロポーズをするつもりだった。指輪は翔子の細い指に似合うよう、華奢で小ぶりなものを選んだ。俺のそんな思いとは裏腹に、翔子は病院のベッドの上で日に日に弱っていった。
大学のサークルで出会って付き合い、お互いに奥手だったからか愛の言葉を交わすようなことはなかったが、翔子と俺は確実に想い合っていた。大学卒業後は一緒に暮らすようになり、お互いの矢印が同じ形で向き合っているという確信の中で流れる日々は心地よく、そして幸せなものだった。
翔子が倒れたあの日もすぐに救急車を呼べたのは俺がすぐそばにいたからだ。

衰弱していく翔子をなんとか元気付けようと、薄いピンクのマニキュアを買ったことがある。手が震えてしまうからと俺に塗るのを任せた翔子は、自分の指先と俺の顔を交互に見ては終始ニコニコとしていた。マニキュアなんて人にはもちろん自分にもしたことがない俺が完成させた翔子の爪はまだらに染まっていて、二人して顔を見合わせて笑ったんだ。

その翔子の手が、ここにある。病室で爪を塗ったばかりの、二十年前の、死ぬ前の、翔子の手が、ここに。
重ねた右手から、微かにだが体温が伝わってきた。俺は泣いていた。フローリングの床が落ちた雫で濡れていく。翔子の左手の甲に添う形で右手を重ね、指の間に指を絡ませる。夢でいい。催眠術でもなんでもいい。久しぶりに感じた翔子の体温が、温度以上にあたたかくて、涙を止めることができなかった。


眠れないまま朝を迎えた。翔子の左手は昨晩から変わらぬ様子で、テーブルの上に広げた風呂敷の上に横たわっている。
ベッドの中で目を閉じている間中、翔子との思い出がまるで映画でも観ているかのように頭の中を流れては通りすぎていった。口喧嘩もすれ違いも、倦怠期すらも愛おしく映り、俺はひとつひとつの思い出が切り替わる度に泣いた。意味のない目覚ましがけたたましく鳴り響き、それを止めるために目を開けたとき、テーブルの上の左手は窓からの朝日を受けてより一層白く光っていた。

コーヒーを飲みながら、テーブルの向かいに置いたままの左手を眺める。健康な頃の翔子の手とは違い、白い肌に青い血管が浮き、痩せ細って骨ばっている。開け放した窓から春の風が舞い込み、カーテンを揺らした。そうだ、あの時もこんな季節だった。翔子はよく退院したらしたいことについて俺に熱心に話していた。記憶の中の翔子が窓の外を眺める。
「退院したらやっぱり、花を見に行きたいわ」

土曜日のお昼時の公園は当たり前のように親子連れで賑わっていた。俺が歩くたびに紙袋の中で翔子の左手がガサガサと音を立てる。こんなことをしても意味がないのに。手頃なベンチを見つけ、腰を下ろしてから自分の右側に紙袋を置いた。他人からはゴムの塊にしか見えていないだろうことはわかっていたが、流石にそのままの姿で持ってくるわけにもいかず、「左手屋」と印字された紙袋の中に左手を入れてきた。俺の頭上では、葉桜になりかけた桜がまだしぶとく咲いている。

「本当に桜の花びらみたい」
慣れない手つきでどうにかマニキュアを完成させた俺の前に両手をかざして、翔子は笑っていた。目を閉じて弱々しく笑う翔子の顔を思い出す。花はよくわからないけど、翔子がそう言うから俺も花びらに見えたんだよ。目を開けて紙袋の中を覗くと、日光を浴びた翔子の左手はなんだか嬉しそうに見えて、そんなことを感じた自分がおかしくて少し笑ってしまった。翔子、花って桜でよかったかな。俺は自分の右手を紙袋の中に入れると、翔子の左手をそっと握った。

その日の夜は、翔子の左手の横で眠った。汚いベッドに翔子の左手を招く気にもなれず、久しぶりに洗ったシーツと干した布団に挟まれて横になる。指と指の間に自分の指を滑り込ませて握ると、柔らかく曲がった翔子の指から微かな体温が伝わってきた。生前、手を繋いで眠ったことなんてあっただろうか。「愛してる」なんてもちろんのこと「好き」ともなかなか伝えられない俺にずっと寄り添ってくれた翔子と、今こうして手を繋いで横になっている。目を閉じれば右手の先には翔子の左手があり、その先にはすやすやと寝息を立てる翔子がいた。起こさないように翔子の額を撫でたあと、俺は眠りについた。


随分深く眠っていたらしい。目が覚めると部屋の中は暖色の日光に照らされ、柔らかい空気が漂っていた。4月10日15:00と表示されている時計に目をやる。久しぶりに夢を見なかった。
ハッとして布団を捲る。翔子の左手は俺の右手から離れてはいたものの、俺の横で静かに横たわっていた。

4月10日。翔子の誕生日。翔子が生きていた頃は酒が飲めなかった俺もいつの間にかワインを嗜むようになり、この日は毎年一人で晩酌をしていた。もちろん今年もそのつもりでワインが用意してある。
夕飯の片付けを終えて、なんとなく、グラスをふたつテーブルに置く。これまで何回も一人で飲んできたし、これから何回も同じことをするんだ、たまにはこういうこともいいだろう。誰かの結婚式の引き出物でもらったペアグラスにワインを注いで、ひとつを手元に、もうひとつを翔子の手の前に置いた。
「乾杯」
自分の小さな声が、静かな部屋に馴染んでいった。

ゆっくりと三口ほど飲んで、翔子の手を見る。ワインの向こうに見える力の入っていないその左手は、ほんのりとした電球の灯りを受けてテーブルに淡い影を落としていた。なんとなく、そこに自分の手を重ねたときのことだった。

俺は息を呑んでいた。翔子がこちらを見つめていたからだ。
俺が重ねた左手の先には左腕があり、左腕の先には身体があって、不思議そうな顔をした翔子がこちらを見ていた。俺の右手の下で翔子の手が動き、慌てて手を離す。翔子は青い病院服を着ていて頰は少し痩けていたが、紛れもなく翔子だった。周りを少し見回してから、俺と俺の手元にあるワインを交互に眺めている。
「翔子」
翔子はハッとした顔をすると、何かを喋ろうとしてから首を傾げて喉に手を当てた。顔が、身体が、仕草が、すべてが翔子だった。夢でいい。催眠術でもなんでもいい。
「誕生日、おめでとう」
首を傾げていた翔子が、嬉しそうに微笑んだ。

二人でワインを飲みながらたくさんのことを話した。翔子がいなくなってからの人生は彩りに欠けていて、墓参りに行った時もこれと言って報告することがなく困っていた俺は、自分の口から溢れ出てくる言葉に驚いていた。本当は全部聞いて欲しかった。隣で全部見ていて欲しかった。翔子が喋ることはなかったが、俺の面白みのない近況に目を丸くしたり、微笑んだり、たくさんの反応を返してくれた。今なら全部、言えるかもしれない。

俺は席を立つとタンスの一番上の引き出しから小さな箱を取り出した。翔子が驚いているのが気配でわかる。席に戻ると、おもむろにその小さな箱を開けた。心臓の音がうるさいくらいに響く。震える手で指輪を取り出すのに手こずっていると、翔子の左手が俺の手に重ねられた。前を向くと翔子がこちらを見て微笑んでいた。俺の手の甲をゆっくりとさするその手の体温があまりにも優しくて、視界が勢いよく滲んでいく。

俺はもう随分歳上になってしまったけれど。翔子がいないと部屋もこんな感じだし、稼ぎはあまり多くないけれど。気持ちを伝えるのも下手だし、きっと小さな迷惑をたくさんかけてしまうけれど。
「愛しています。結婚してください。」
俺の震えた声が部屋に溶けていく。ぼろぼろに泣きながらプロポーズをする俺が面白かったのか、翔子は肩を震わせて笑うと、俺の両手を自分の両手で包むように重ねてから、俺の目を見てしっかりと頷いた。

指輪は翔子の痩せた指より少し大きかった。翔子は自分の左手を高く掲げるとそれを見上げて笑った。


起きてすぐ視界に入ったのは、左手の形を模したゴムの塊だった。上半身を起こすと、自分の頭の重さでせき止められていた腕の血液が勢いよく流れ出すのを感じる。ゴムの左手の前には、昨日のままのワインが何事もなかったようにグラスに注がれていた。薬指には、華奢な指輪がはめられている。
48時間。長い夢だった。俺は指輪を丁寧に抜き取ると、近くに置いてあったケースに戻して蓋を閉じた。紙袋にしまっていた風呂敷にゴムの左手を乗せる。なんとなく、こちらに手のひらを向ける左手に自分の右手を重ねてみた。それは不自然に固く、ひんやりとしていた。

「ご返却ありがとうございます。如何でしたか、使い心地は」
「いい夢が見れたよ。ありがとう」
それはそれは、と完璧な営業スマイルを浮かべる男を背に店を出る。いい夢が見れた。本当にその通りの気分だった。泣きながら夢から覚めるとき、その内容は覚えていないことが多い。それでも残るほんのりとした爽快感と少しの寂しさは、起きてからの生活を少しだけ彩ることがある。この二日間はそんな夢を見ていたのだと思う。これからの生活を、少しだけ彩るような。

家に着いてパソコンを開く。一体この体験をどう記事にしたらいいのだろう。書き始めてはデリートを連打して2時間ほど経っただろうか。指輪のケースを片付けていなかったことを思い出した。タンスの一番上の引き出しを開け、定位置に置こうと引き出しを覗く。ふと白い封筒が目についた。指輪のケースの下にしまっていたからずっと触っていなかったそれは、翔子が書いた俺宛の遺書だ。
遺書というより手紙のようなそれは、翔子の死後一年ほどは繰り返し読まれていたものの、翔子の母からの「いつまでも引きずらないでいいからね」という言葉を機に、指輪と共に引き出しの底にしまわれていた。

久しぶりに開けた封筒から出てきた便箋はもう端が黄ばんでしまっていて、二十年という月日の長さを物語っていた。手紙が書かれた日に病院であったこと、最近また食べられる物が減ったこと、窓から見える景色。遺書とは思えないその手紙の最後を読んだ瞬間、俺は家を飛び出していた。


『追伸(遺書に追伸はおかしいかな)
昨日素敵な夢を見ました。きっと神様からの誕生日プレゼントだと思う。
あなたは老けてもあなただった。
これからお酒が飲めるようになっても、あまり飲みすぎないでね。
ありがとう。私も愛しています。』


左手屋があったはずの場所は空き家になっていた。雑草の生えた玄関の前で立ちすくむ。突然びゅうっと音がして、強い風が吹いた。思わず瞑った目をゆっくりと開けると、どこからともなく桜の花びらが舞っていた。足元に一つ、また一つと落ちていく。長い夢だった。長くて儚くて、これからの生活を少しだけ、彩るような。翔子の左手の感触がまだ右手に残っているような気がして手のひらを見る。示し合わせたかのように、そこにゆっくりと花びらが着地した。

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