【小説】6月16日

たとえばさ、美久の言うとおり私が色だったとしようよ。そしたらキャンバスの役目をやってくれる?心地よく息ができるのなんて、美久といるときだけだよ。ごめん、それは言いすぎかな。でも酸素がキレイな気がする。あ、笑ったでしょ。いいけど。ところでさ、世界の終わりって何色だと思う?

リズミカルな鈴の音で目が覚めた。重たい瞼をこじ開けて音の発信源を探す。スマホに表示されるいくつかの仕掛けをぼんやりした頭でクリアすると、ようやく鈴の音が鳴り止んだ。仰向けに戻り、もう一度目を閉じて夢の残り香を味わう。空はいつも自分が話したいことを話した。いつ出てくるかわからない「ところでさ、」が、私は大好きだったんだ。目を開けてスマホを見る。さっきからロック画面に表示されて続けている2022年6月16日の文字。20代である私は、今日死んでしまう。


「あれ、今日祐樹さんは?」
湿気にまみれた外の空気とは違い、程よく換気された店内の空気が心地いい。薄暗い照明に照らされたカウンター越しに空が紅茶の缶を探し当てる。
「今日はね、なんかお友達と会うとか」
「そっか」
空はちょうど今から三年前に結婚した。籍を入れたのはもう少し前だったが、「ジューンブライド、やりたかったんだよね」なんて言って6月に結婚式を挙げていた。梅雨時期の結婚式なんて博打でしかないと思っていたのに、空は当たり前のように賭け勝ち、湿った緑すらも太陽の光で演出要素に変えてしまうような美しい式を挙げた。忘れもしない、私の誕生日に、空は別の人と一緒になった。

空が夫である祐樹さんと経営するカフェは、小さいながらも隠れ家的な雰囲気を持ち、地元の人に愛されているようだった。今だって平日の午前だと言うのにテーブル席もきちんと埋まっている。

「え!歳上!?マジで!?」
「ちょ、声でかいって」
突然奥の方のテーブルからこの静かな空気に似つかわしくない声が上がり、無意識に意識を向けてしまう。
「何歳、何歳よ」
「31…だけど」
空中に放り投げられたような声は、落ちてくるのに時間がかかる。
「マジかあ」

20代前半らしき二人組はその後も新しくできた30代の恋人について何か喋っていた。そちらの方を見ていた空が私に視線を戻す。
「今日丸一日休み取ったの?」
「あ……うんそう、午後には出るからね」
足元に置いてあるキャリーバッグは社会人になりたての頃からずっと買い換えておらず、薄ピンクのつるんとした表面にはいつ付いたのかもわからない細かい傷が無数に付いていた。
「いいなあ沖縄、私誕生日ここにいたもんなあ」
「え、でも楽しかったじゃん」
「まあね」
空はへへ、と調子よく笑うと、蒸らしていた紅茶のカバーを取って、小さめのポットとカップを私の前に置いた。

空の誕生日はこのカフェで祝った。祐樹さんと空、そして私と数人の友人で開かれた誕生会。仕事で遅れた私が到着した頃にはすでに行儀よく切られたケーキが小さなお皿に乗っていて、カウンターの向こうでは祐樹さんと空が同じ話題で笑っていて。こうやっていろんなことが通り過ぎて行くんだと思いながら口に入れた苺は思いの外酸っぱくて、それでも誕生日だからと言って真っ白なワンピースを着た空はやっぱり綺麗で───

「美久」
視線を空の奥に並べられた紅茶の缶から空へ移す。
「誕生日おめでとう」
突然のまっすぐな視線とまっすぐな言葉に吹き出してしまう。
「何、あらたまって」
「いや、明日直接言えないじゃん、それでさ」
言葉を切った空は、近くにあった冷蔵庫をおもむろに開けると中から小さなプレートを取り出した。
「わ、まじか」
「ちょっと待って、今火つける」
プレートの上には小さなケーキとカットされたフルーツ、そしてケーキの上には明らかに蝋燭ではない棒が二本刺さっている。

『うちらもさ、大人になって彼氏とかできたらきっと、誕生日に花火刺さったケーキ食べんだよ』
『あれってケーキ、臭くならないのかね』
『知らん』

「ハッピバースデートゥーユー」
「歌わなくていいって」
想像していたより力強い花火が目の前で弾ける。薄暗い店内でここだけが光っているみたいで、場違いなパチパチとした音が面白い。花火の奥でスマホをこちらに向ける空の顔が淡く照らされる。
「ひー、これ、いつ終わるの」
「確かに、あ、ほら写真も撮ろ、顔」
「あ」
写真に写るために寄せた顔の近くで花火は急にしぼんだように消えた。

「どんな歳にしたいですか」
花火についていたクリームをティッシュで拭きながら空が言った。
「どんな歳、かあ……」
30歳。“放課後”を生きていた私たちには遠すぎて見えもしなかった歳。
「自分が歳をとることは嬉しいけどさ、30歳って、人はどう思うんだろうね」
後ろの二人組の気配は少し前に消えていた。あの二人は自分の体が一年ごとに歳をとることを、どう思っているんだろう。
「美久はなんて思ってた?」
「あー、大人?」
「普通だなあ」
空はけらけらと笑いながら続けた。
「私思うんだけどさ、年齢が変わって『消えた』って思うものって、その時の自分に要らないものなんじゃないかって」
カップに注いだ紅茶の湯気で視界がぼやける。
「そうかね」
「そう、必要なものは消えたって思えない」
いつにも増してピンと来ない空の話を聞きながら、ケーキの苺にフォークを刺す。
「こっちから捨てていかないとって話なら理解できるけど」
自分の言葉が先の丸い針になって心臓を柔らかくへこませたような気がして、急いで苺を頬張る。甘い。

空はいつもこうだった。抽象的な話が得意で、空気を変える一言が言えて、叶えたい夢を叶えては真ん中で笑っているような子。私にないものを全部持って生まれた空に憧れを抱かないわけがない。でもたまに空と話していると、どこかに掴まりたくなるような感覚になることがあった。それは決して心地のいいものではなくて、こんなに好きな空の話を受け止められない自分の小ささと、無い物ねだりの羨望と、嫉しさと卑しさを一緒くたに煮詰めたような、例えて言うならこれは、

「ところでさ、」
空の声で歪みかけていた視界が一瞬で元の形に収まる。
「最初の質問、どんな歳にしたいですか」


カフェを出て駅へ向かう。空は花火のケーキの話を覚えていなかった。私だけが覚えている記憶っていくつあるんだろう。数えなくても分かりきっていることは、空だけが覚えている記憶より遥かに多いということ。私が忘れて空だけが覚えている記憶なんて、もしかしたらないのかもしれない。歴代の恋人がケーキに花火を刺さないでくれてよかったと思う私は今、黒く煤けた姿をしているんだろう。火の消えた花火を抜き取った後のケーキは、やっぱり少し臭かった。

鞄の中でスマホが震えたことをきっかけに、現実の音が戻ってくる。行き交う車の音、すれ違う人の話し声、遠くの方から飛行機の音。
『恭平
なんかめっちゃ早く着くから空港内のカフェにいるね』
通知に表示されている、AIが勝手に導き出した『うん』『わかった』という返事があまりにも素っ気なくて少し可笑しい。もし人類が利便性だけを求める生き物だったら、全てのことをAIに頼るうちに、誰かが死んでも誰も気付かないような世界が出来上がるのかもしれない。この間読んだ星新一の小説にそんな話があった。私が今死んだら、誰が最初に気付いてくれるだろう。

恭平と付き合ってからもう二年半が経つ。中学校の同級生だった男女が友人の結婚式で再会を果たす、なんて運命的なストーリーは女友達に受けがいいだけだ。実際はほぼ初対面と変わらなくて、後になって出身校が同じことが判明してからも「怖かった担任」の話や「雨の中の修学旅行」の話の上澄みをなぞっただけで、キラキラしたラブストーリーとはほど遠い。それよりも空と祐樹さんという存在の方が、私たちを近づける決定的な理由になった。

恭平はおおらかな人だった。大雑把という言い方もできるのかもしれないが、物事に対するこだわりというものが全体的に薄い彼の周りにはいつも誰かしらがいて、そこにはゆっくりとした空気が流れていた。結局みんな誰かに許されたいのだろう。そして私も、その中の一人なんだろう。

恭平が家に来たときに、家中のドアというドアを開けっ放しにしていくので、「ドアは開けたら閉めてほしい」と言ったことがある。恭平は首を少し傾げて「なんで?」と聞いた。その心からの『なんで?』は、私の言葉が自分ルールであるということを浮き彫りにするのに充分な質量を持っていた。私がごめんと謝ると、恭平は少しの間を開けてからおもむろに立ち上がってドアを閉めた。「あー、こっちの方があったかいかも」と言って笑った恭平の顔を、私はまだ覚えている。

羽田空港に向かう電車の中で、向かいの窓に当たる雨を眺める。傘を持ってきて良かった。キャリーバッグが濡れてしまうのはあまりいい気がしないが、すぐに乾くだろう。沖縄は一足先に梅雨明けを迎えたらしい。先月の今頃、鞄からパンフレットを取り出して「今年の美久の誕生日、行きましょうや」とニヤついていた恭平の顔を思い出す。特別な日に沖縄、という発想が恭平らしい。恭平といると世界の彩度が少し下がる気がした。ずっと鮮やかすぎる世界で酷使された脳が柔らかくなるような感覚。空といるときに感じるような『どこかに捕まりたい』という気持ちは、一度も抱いたことがなかった。


「ケーキ食べないの?」
私のアイスカフェラテと恭平のミルクレープの注文を受けた店員がテーブルを去ってから、恭平が聞いた。
「さっき空のとこで食べてきたんだよね」
「そっかあ、まあ俺は食べますが」
「どうぞどうぞ」
恭平の近くには飲みかけのアイスコーヒーがあって、だいぶ薄くなったコーヒーの色が恭平の待ち時間を示していた。
「ごめん待たせちゃって。結構待ったでしょ、お昼食べた?」
隠す必要はまったくないのに花火のことを言わない自分がなんだか汚く思えて、話題を変えてみたものの、話題を変えたことにも自己嫌悪を感じて視線を少しだけ落とした。
「待ったけど美久が遅れた訳じゃないからね、あと」
言葉を不自然に切った恭平に違和感を感じて視線を前に戻すと、恭平は隣のテーブルをチラッと見てから小声で「ここのカレー、めちゃおいしかった」と言った。隣のテーブルでは高齢の夫婦がニコニコとカレーを食べていた。

搭乗時間まではまだ時間があるから、運ばれてきたアイスカフェラテの大きさからしても飲み終わってからで十分間に合うな、なんてことをぼんやりと考えながら、ミルクレープをちまちまと口に運ぶ恭平を見る。
「今日で20代が終わるんだよなあ……」
ぽつりと溢した私を見て、恭平が表情を変えずに言う。
「どんな気持ち?」
「うーん」
素朴な質問に戸惑ってしまう。どんな気持ち。
「いろんな気持ち」
「なにそれ」
小さく吹き出した恭平が「じゃあその中で一個だけ教えて」と言うので、薄暗い頭の中で蛍光灯のスイッチを入れる。
「終わるのか……と、まだ終わらないのか……みたいな」
「二個じゃん」
恭平の的確な突っ込みに今度は私が吹き出してしまう。

「でもわかるよ」
恭平がだいぶ薄まったアイスコーヒーを一口飲む。
「何回終わってもその度に始まるもんな、懲りないよな、奴ら」
奴ら、という言い方が恭平らしくて少し笑ってしまう。
「そうなんだよね、なんでもさ、終わるくせに『終わった』っていう事実は続くんだよ、奴らハッキリしてほしい」
目を合わせて笑う。世界の彩度がまたちょうどよく調節される。
「でもさ」
恭平が手元のミルクレープを一口分に切り分けながら言う。
「終わって始まって、その分だけ層が厚くなってさ、おいしくはなるよね」
言い終わってからミルクレープを口に入れるとこっちを確認するように見る。
「今」
「うん」
「自分良いこと言ったと思ってるでしょ」
素直にうん、と笑いながら頷く恭平の周りにはやっぱりゆっくりとした時間が流れていて、もしかしたら私もこっち側の住人なのかも、という錯覚を起こさせる。

『ところでさ、最後の晩餐は何食べたい?』

事ある毎に浮かぶ顔ももう見慣れてしまった。これはたぶん、一生終わることはないんだろうな。
「美久はさ」
「うん」
「30歳、どんな歳にしたいですか」


飛び立つ間際の機内で少しも不安を感じない人って存在するんだろうか。実際の圧迫感以上に窮屈に感じるシートベルトで固定された身体が、斜め後ろに向けて引っ張られるような感覚、ゴオオという聞き慣れない音、浮遊感と耳の違和感が相まって、小さな不安が身体に薄い膜を張る。目を閉じて、ゆっくり息をする。このちっぽけな人生で得た、ちっぽけな人生の生き延び方。ちっぽけな不安を、真っ向から不安として受け取らないこと。
何も喋ってはいないのに隠しきれないワクワク感が隣の席から伝わってくる。恭平がこんなに飛行機を楽しんでくれるのなら、窓側の席を譲ればよかった。あっという間に遠く小さくなった地上の風景を眺めながら、デスクワークで固まった身体をシートに沈ませる。滑走路、空港、東京、景色、雲、雲、雲。


ふと気がつくと、私は薄暗い部屋の隅に立っていた。どこからともなくすすり泣く声が聞こえてくる。部屋の前方、中央あたりだけがしっかりと明るくなっていて、そこに写真が飾られている。あれは……そうだ、この間恭平と桜を見に行ったときの写真だ。隣に写るはずの恭平の姿は不自然に切り取られ、私の顔だけが大きく引き伸ばされている。

ああ、夢だ。私は今夢の中にいて、自分の葬式を眺めているんだ。なんて縁起の悪い夢だろうとも思うが、さっきの不安がわかりやすく形となって現れたことに少しだけ可笑しくなってしまう。写真の前には大きな棺桶が置かれていて、その近くの親族席では、なぜか恭平が声を上げて泣いていた。恭平と出会って三年ほど、私は彼が涙を流す姿を見たことがない。いい機会だから泣き顔を拝んでやろうと近づいてはみたものの、恭平の顔はそこだけ磨りガラスでも通して見たかのように、ぼやけてよくわからなかった。

「えー、それでは続きまして、友人一同によるお別れの歌に移りたいと思います」
声の方向を見ると親族席と反対側に立っている男性がマイクを通して喋っていた。祐樹さんだ。蝶ネクタイに燕尾服という出で立ちで、進行の紙を片手に持っている。突然ピアノの音色が鳴り響き、続いて会場の後ろから大人数の歌声が聞こえてきた。驚いて振り向くと、合唱コンクールを彷彿させるようなひな壇に見知った顔ぶれが並んでいた。怪獣のバラード。いつか空が大好きだと言っていた曲。
指揮台の上に立つ後ろ姿が曲に合わせて動く。三つ折りにした短いスカートに黒いハイソックス、オーバーサイズの紺色のセーター、しなやかに揺れるロングヘアー。

私の夢は場面を変えて続いた。空のカフェに移動したみんなを眺めながら、カウンターの端に座りアイスを食べる。アイスにはオレンジの香りがするお酒がかかっていて、そうだ、この食べ方は恭平が教えてくれたんだった。少し離れたカウンター席では空たちが私との思い出を笑顔で振り返っていた。
美久ってば、入学式に遅刻してきたんだよ。不良だなーって思った。
そういえばそんなこともあった気がする。すっかり忘れていた。そうだ、すっかり忘れていた。
「美久!なんで端っこにいるのよ、主役なのに」
突然空に声をかけられてハッとした。手を引っ張られ、真ん中の席に座らされる。
「ハッピバースデートゥーユー」
後ろから調子の外れた歌声が聞こえて振り向くと、恭平が花火の刺さったケーキを持ってくるところだった。


グラデーションで切り替わっていく夢と現実の狭間で、心地よい微睡みをゆったりと味わう。うっすらと開けた目に入った光が柔らかい色をしていたので、無意識に窓の方を見た。オレンジに染まった雲。夕焼けの中を飛んでいる。隣の席を見ると恭平がすやすやと寝息を立てていた。明日私はきっと、このおおらかでやさしくて生きやすい世界を作ってくれる人と大きな約束をするのだろう。

『ところでさ、』
もう一度窓を眺める。
『世界の終わりって何色だと思う?』
空、私、世界の終わりってこんな色だと思う。陸も海もなくなって、世界は夕焼け空だけになるんだよ。でもね、私知ってるんだ、全部全部続くこと。夕焼けの後には当たり前のように夜が来て、また真っ白い世界が始まるってこと。終わって始まって始まって終わって、最後の晩餐はみんなで美味しいものを食べようよ。

薄れてきた雲の間に海が見えて、あっという間に小さな島が顔を出した。機内に放送が流れる。
「恭平、着くよ」
うーん、と小さく唸ってから目を開けた恭平がこちらを見て微笑む。
「美久、さっき寝ながら笑ってたよ」
「うそ、ほんと」
「うん」
シートベルト着用のサインが点灯し、ポン、という独特な音がなる。
「恭平」
「うん?」
世界の終わりはこんな色だけど、きっと世界の始まりもこんな色だ。
「楽しい歳にしたいな」
そうだな、と笑った恭平の声で、痛々しいほど鮮やかだったオレンジ色がまた、少しだけ淡くなった気がした。

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