黄昏と諦め
この二つの単語は、韻を踏んでいるから並べたのではない。
深く、根強く、どうしようもないつながりを持っているから、ここに意味ありげに並べたのだ。少なくとも、私にとってはこれ以上ないほどに重要な並びである。
黄昏とは、「誰そ彼」という古語として説明されることがあり、それはそれで味わい深いものだ。しかし、今は由来ではなく、黄昏という行為が持つ機能を支える思想を見つめたい。
社会をより良い形に変えていくとき、私たちには途方もない情熱と思考が求められる。そこにまだ存在しない社会の形を、批判と無限通りの理想の中で探し続けなければならないからだ。思考は、情熱によって回転するが、その情熱の根本には、常に現状に対する不満がある。社会に対する疑心暗鬼がある。
それは本当に苦しい作業だ。しかし、その苦しい作業を繰り返し、無限通りの実験を繰り返さなければ、これだけの人間が協力して生きていくためのシステムは見つからない。ダーウィニズムは自然界だけでなく、人間の社会システム構想にも当てはまる。そして、社会システム構想におけるダーウィニズムを拡大させることは、社会ダーウィニズムを退けるための確かな営みである。
その苦しい作業を、失敗を恐れずに続けることこそが、私たちがより良い社会へたどり着くためのたった一つの道である。
そういった道のりのなかで、私たちの情熱が燃え尽きそうになるときがやってくる。その時に、黄昏がそっと向こうからやってくる。
黄昏るとき、私たちの思考はどういった状況にあるだろうか。いや、そもそも思考は行われているのだろうか。目の前に映る景色を、本当に情報として受け取っているのだろうか。
思考は行われていない。情報は全て無視されている。眼球は物理現象としてその光を取り込み、その奥にある神経は脳に情報を送る。しかし、脳はその情報を分析しない。自らの機能を放棄する。
私たちは思考を行わず、そこに現実を脳で感じるだけの瞬間がやってくる。その断続的な瞬間が徐々に伸び、継続した時に黄昏が完成する。
黄昏には、なぜか若干の快感が伴う。
それは何よりも手ごろな快感かもしれない。何かを買ったり、動作をしたり、想像する必要もない。ただ、思考を止めれば良い。なんと美しく、つまらないんだろう。
その快感は、とても静かに、心の奥にしまってある情熱を冷ます。情熱によって回転するはずだった思考は、さび付いていく。
そこに、諦めが静かに忍び込む。諦めが支配した世界の先には何もない。ただ永遠に地平が広がる。そんな世界では、どこでも黄昏ができよう。逆に、どこまで行ってもそれしかできない。
諦めの地平の下では、それを支えるために、思考が回り始める。諦めが情熱に代わって思考を回転させるのだ。しかし、思考はもう変化のためには回らない。現状をどこまでも肯定する論理を作り出す道具となる。諦めは、その地平を支える論理を形作り、地盤を固めていく。地盤は時間をかけ、思考によって、さらに強固になる。私たちは、その地平が太古から存在したと錯覚する。そして、黄昏による快感が、私たちが地平を見るための力をも奪っていくのだ。
違う。そんな世界はいらない。
人間が求めているのは、一人一人が求める人生を実現できる社会であるはずだ。そのためには、情熱を持って思考を繰り返さなければいけない。しかし、その苦しい作業は何よりも美しく、そして理想的な社会を実現させる可能性を秘めている。
黄昏による諦めへのいざないに対する抵抗として、私たちは行動するのだ。