大人とモノとコト

親や恋人に送った抗議のLINEの字数を面白半分に数えたら、平気で4000字近くいってたこと、ありませんか?ありませんか。抗議文の執筆ペースには定評がある私ですが、この癖はやめたいです。やめます。マジでやめます。本気です。

大人になったら

生きてて、「自分も大人になったな〜」なんて思うことってあんまりなくないですか。私は今年25になるらしいのですが、子供じみたマネもしてしまうし(上記参照)、同い年の子の婚約や結婚を聞いてもまあ〜私らの年なんてまだこんなに精神が未熟なのに大変なことね、と思ってしまうし、自分が子供の頃に思い描いた「大人」という生物とは遠くかけ離れています。

誰かも言っていた、「この世の中に大人なんてものはいない」というのは、その通りの意味なんだろうなと思います。私たちはいつまで経っても私たちで、延長線上に少しずつ成長していくしかなくて、子供が大人になるみたいな分かりやすいステップはどこにもない。かと言って、いつの間にか大人になったなあ、と感じることもあまりないんだと思います、だってもう50代も後半にさしかかろうという母でさえ先日、「まだまだ自分が大人だなんて思えないわよ」と言っていましたので…

ですが、最近「自分も大人になったな〜」ポイントを発見したのです。自分としては自己分析の上でのかなりの大発見、それはお金の使い方でした。

学生時代から投資に興味があったので、お金を使うこと=投資だという意識はもとより強くありました。

以前は、投資だと思っていたからこそ「モノ」にお金をかけていました。
5000円でディズニーに行くよりは5000円の服を買うし、旅行のお土産も長くとっておけるものを買うし、一度の高い食事にお金を使うくらいなら本を何冊も買いたかった。「モノ」に投資する方がお得だと思っていました。

しかし最近の自分を振り返ると、傾向が変わってきたことに気づきます。目に見える形のある「モノ」よりも経験を積極的に買おうとするようになっていました。5000円で買えるチャチな服とか靴とかなんかより、好きな人とディズニーに行った方がよっぽどお得だと思うようになりました。旅行のお土産にいたってはもはや要らないとすら思えました、自分の中に感じたものを残しておければ十分で、お土産を買うお金があるならその分普段見られない素敵な景色を心に焼き付けようと思えるようになりました。

今の私を作るのは貯め込んできた物質じゃなくて、実際に積み重ねてきた経験だということに気づいた、とでも言いましょうか。それは雑誌のモデルさんとか女優さんが、素敵なヨーロッパ映画を見た翌日に色っぽいと言われるようになった(これは雑誌のインタビューで見て感銘を受けたエピソードですが、素敵ですよな~)とか、そんな感覚レベルの話ですが、何かを形として残さないとしても、今まで自分のたどってきた道そのものが生きて今の私になっている、見たものや感じたもの、口にしたもの、それらは私の中で生き続けるから、逐一モノとして残す必要がないんだ…そう思うと気持ちはスッキリしたし、断捨離も進みました。と同時に、私の投資対象は自分の思い出や経験が形になったものではなく、自分の経験値になるもの、と変化しました。

「昔は強かったモノへの執着を捨てて、経験にお金を使おうだなんて、私もちょっとは大人になったんだなあ」なんて思ったりしてました。目に見える形のあるものに頼らないって、大人っぽくてセクシーじゃないですか…


モノ消費のおわり

ところが、ある日新聞の見出しを見てハッとさせられました。「モノ消費からコト消費へ」。モノで飽和した社会で、とっくの昔に物質社会はおわって、私たちは精神社会に生きていたのです。確かに私たちはこの流れを当然のものとして受け入れ過ぎていたのでした。

だから私は言われるまで気づきませんでした。メルカリをはじめとするCtoC産業。服やブランド品のレンタル産業。所有からシェアへ人の関心は移っていました。買い物は実物を店舗で見て、ネットで。実店舗にお金を落とさずネットで安く買って(ショールーミングという)、モノに対して情熱はないので安物を買ったら、浮いたお金はサービスで消費。eコマースとテーマパークの売り上げは伸びている一方、渋谷109のの売り上げは年々下がっているといいます。日本、いやきっと世界全体で、GDPに反映されない新たな経済圏が広がっている…人々がモノに固執しないこと、所有からシェアへと情熱が移行したことによって、「モノ消費が減って生活が豊かに」「消費の量は減るが質は向上」という世の中の動きが始まっていたのです。

衝撃でした。私は大人になったんじゃなくて、世間の波に流されていただけだった。

結局、ちっとも大人になんてなっていなかったのです。(まあそれはそう)

また、世間の流れというものを、自分が無意識のうちに体現していたことには驚かされました。なんの考えもなしに、まんまといち生活者をやっていたということですからね…してやられた、と思いました。


ちょっと引いて見る like俯瞰

最近の若者は…と若者は言いません。これだから年寄りは…と年寄りは言いません。最近のデジタルネイティブは…とか、これだからゆとりは…とかも該当する層は言わないし、言われても…極度な一般化はナンセンスですな…(笑)論理の破綻乙(笑)としかなりませんね。

しかし今回自分が知らず知らずのうちにいわゆる「世の波、流れ」に沿って動かされ、感情まで支配されていたことに気づいて、今自分が置かれている世界を外側からちゃんと見れるようにしたいなと思いました。年寄りから見た若者とか、男から見た女とか、世界から見た日本とか、多分当事者を一生懸命やっているだけでは見えないものがたくさんあるのです。今回で言うと、世の流れの渦中にいたから自分の変化に気づけなかったけど、自分世代以外の目線から世の中の流れを見ることができていれば、こんな勘違いというか、ショックは受けなかったはずなんです。

上記はただの一例に過ぎませんが、どんなことであれ、自分の立場のことを自分以外の目線から俯瞰して見ること、これができるようになりたいな~と思いました!できると大人っぽいですよね❤まあ圧倒的に大人にはなりたくはないですけどね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?