待ち・望む 2Q20.9.8

今日はあの街を望む丘には行かなかった。
用事があって出掛けていたからだ。
夕方には家に戻っていた。そして丘の向こうの街の事を思い出していた。
そういえば以前、猫太郎に案内されて1Q84の街を歩いていた時、「王国」の看板が掲示されている会館があったのを思い出した。
その世界では「証人会」という宗教団体の会館であった。
そして私は自分の中学時代を思い出した。
自分の中学にも「証人会」に該当する宗教を信じている家庭の同級生がいた。
彼女は今どうしているだろうか。
彼女とは中学2年生のときに学校のスポーツ活動をとおして仲良くなった。
いや、仲良くなったというよりも、お互いに気になって好きになって、追いかけ合ったり、からかったり、二人を猫に例えるとじゃれ合っていたのだった。
最初はとっつきにくいイメージだったが、次第に彼女の魅力が伝わってきたのだ。
そんな彼女であったが、宗教上の理由で国家を歌えなかった。体育館でみんなが歌っているのに、一人だけ座っていなければならなかった。
それが宗教上の理由であることは私にも理解できたが、細かい宗教のことは分からなかった。同級生も同様に宗教のことは詳しく分からなかったので、その宗教のことをキリスト教と呼んでいた。
そして、あまり彼女の宗教に関わることについては、深くは考えなかった。
その事には触れないようにしていた。
でも、本当はキリスト教ではなかった。
違う宗教だったのだ。

はっきりとは覚えていないのだが、中学生活も終わりに近づいてきたある日(もしくは卒業式の日)、下校時の帰り道に彼女が後ろから歩いてくる気配を感じた。振り返ると彼女だった。手には手紙らしきものが。
そういえば、5分ほど前に彼女は家族の車から降りて、何やら兄弟から励まされていたのだった。その時も私は彼女の姿を自分の後方に見ていた。そして、なぜこんな所で車を降りたのか、せっかく家族が迎えに来てくれたはずなのに、と疑問に思っていた。
そう思いつつも帰りの坂道を引き続き登りはじめた。
そして、次第に後方から彼女が接近しつつあるのを感じていたのだ。
だから、私は彼女が手紙らしきものを持っていると認識した時、勝手にラブレターだと想像した。本当は違っていたかもしれない。でも、うつむきながら接近してくる彼女が醸し出している雰囲気は、決して学校のお知らせ書類や忘れ物を手渡すような感じではなかった。
私から声をかけるには距離がまだ遠すぎた。でも彼女からそれ以上接近する意思は無さそうだった。照れていたのか、他に考えることがあって迷っていたのかもしれない。
自分から声を掛けなければ、もうすぐ自分の家に着いてしまいそうだった。
正直、私はうれしかった。もしそれがラブレターだったら素直に喜んだだろう。いや、もっと控えめな内容の手紙だったとしても嬉しかった。ドキドキした。さらなる青春が始まるかもしれないと思った。
だが、その時に私は同時に彼女の宗教の事について考えていた。これは以前にも何度か考えていたことだった。
彼女とつき合うことになっても、私には日曜日に彼女の家族と一緒に讃美歌を歌うことはできなかった。もちろん、一緒に布教活動などは出来なかった。私が特定の宗教に入っていたからではない。単純にそれが嫌だったからだ。宗教自体も好きではなかった。今でも宗教は好きではない。他人が好きな宗教を信じることについては批判したり、それで仲が悪くなることはないが、自分が宗教に入る気は全くなかった。

そして私が当時知っていたその宗教で一番問題だったのが、家族が身体的に怪我をしてある医療行為が必要になった時に、教義上の理由でそれが許されていなかったことだ。私には宗教上の理由で家族を助けられない事は受け入れられなかった。
そして、それが原因で私はついに彼女から手紙を受け取らずに家に帰ってしまった。
本当はつき合いたかった。でも、きっとつき合っても失敗したはずだ。宗教が壁となって。
とても残念だった。でもその宗教を責める気はない。彼女が魅力を放っていたのは彼女の家族がその宗教に入っていたおかげだったかもしれなかった。キリスト教、もしくはそれに類する宗教はいくつもあるらしいが、きっと彼女の宗教にもキリストの光りが宿っていたのだと思う。本来のキリストの教えから枝分かれした宗教の一部であったかもしれないが、そこにはキリストの光、もしくはそれに該当する何らかの光が宿っていたのだ。だから彼女は私にとって数少ない輝く存在の一人だった。
彼女の内側に感じる純粋な心に惹かれたのだ。
だが、彼女の宗教を受け入れられないのであれば、付き合っても彼女を傷つけるだけ。そういう考えもあって手紙を受け取れなかった。彼女に声をかけなかった。それも私の最大限の優しさのつもりだった。
でも、今では後悔している。そんなに大人ぶらずに受け取れば良かったのだと。たとえどんな内容の手紙であっても、ただの書類であっても。
そして交際して失敗しても良かったのだ。少しの期間でも彼女と一緒にいられるのであれば。いや、手紙の交換だけでも良かった。

戻れるのであれば、その時に戻って手紙を受け取りたい。
あの街ではそれが可能なのだろうか。
いや、そんな事をしても仕方がない。それならば、またどこかで再開して、あの時の気持ちを伝えたい。しかし、もう会うこともないだろう。しかも30年ぶりに会って何を話すというのだろう。
今でも彼女は「証人会」の信者なのだろうか。それとも脱会しているのだろうか。
もしまだ信者なのであれば、自分には彼女のために祈ることしかできない。

「あなたのご意志が天におけると同じように,地上においてもなされますように。そしていつか彼女に王国が到来しますように」・・・と。

そして、私は家から外の月を眺めてみた。もう夜も10時近くになっていた。
すると、おかしなことに月の横に、透き通った月がもう一つくっついていた。それは本来の月とわずかに皮一枚でつながっていた。
もう少しで分裂しそうな気配であった。
え?・・・。私は目がおかしくなったのだと思った。きっと、片方の目の視力が悪いので、その影響だと思い視力が良いほうの片目だけでもう一度月を見てみた。だが、やはり同じだった。大気の影響か?だが、そんなに大気の影響を受けているような空模様でもなかった。
月は完全に分裂している訳ではない。だが、時間が経過すれば2つになるのだろうか?私はそれを確認してみたい気がしたが、睡魔には勝てなかった。睡眠を優先した。また次の日に確認してみよう。時々よくある事かもしれない。コンピューターにもバグがあるように、この世にも時々、それと似たようなことが起きるのかもしれない。あるいは、私の世界だけに。

あの丘を訪れてから不思議なことが続いているので、私はこの世界も普通ではなくなったのかもしれないと思った。
そうだ、「1Q84」にちなんで2020年を2Q20と名づけよう。「1Q84」の「Q」は「9」の発音と同じであるが、私は字の形を真似して「0」と似ているアルファベットの「Q」を使うことにした。
こうして、あの丘の先にある街の外の世界、つまり私の住む世界の今年は2020年と少し違う年となった。2Q20年となったのである。

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