ジョーカーについて再度考えてみた

どうもみんさんお元気ですか?ひらたくです。

ジョーカーを観たのは一週間以上前ですがいまだに引きずっております。いろんなシーンを思い出したり、noteなどでたくさんの方の感想や、考察を見ている中で一つ自分の中でこうなんじゃないかと思うことが出てきました。

それは、「アーサーはジョーカーになるべくしてなった」ということです。自分は、映画を観ている最中にアーサーはどこでジョーカーになったのかという点を探していましたが、自分なりに見つけることができませんでした。証社マン3人を殺したところ、薬がもらえなくなったから、自分の生い立ちを知ったところ、いろんなところがジョーカーになった瞬間じゃないかといわれていますが、僕はたくさんの出来事がありすぎて絞りきれませんでした。

僕が思うのは、アーサーは元からジョーカーでありアーサーという主人格がいろんな出来事によって死んでいく、もしくはジョーカーに飲まれていくのではないかと。薬がもらえなくなり、妄想が激しくなる。そして、アーサーでは誰も認めてくれない振り向いてくれなかったのがジョーカーは市民のみんなが認めてくれている。アーサーという人間がどんどん追い詰められジョーカーが優勢になっていく。「笑いの仮面をかぶれ」これはアーサーに向けたジョーカーからのメッセージだったのではないでしょうか。そんな風に僕は考えます。

この映画は、正解とか不正解とかないと思います。人それぞれの考え方ができる映画なのかなと。「悲劇か喜劇か決めるのは主観だ」まさにその通りの映画なのではないでしょうか。その人の主観でどんな風にも受け取れる映画だと思います。結局どんな考え方をしてもジョーカーには「理解できないよ」と言われると思いますが (笑)

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