カッとなって
「緊急事態宣言」ってなんだろう。
気づけばそんなことを考えている年始になってしまった。ものものしい、ともすればぶっそうな字面で、しかし内容はあんまり、わからない。それがなんとも今ふうだ。
ひと月ほど前にこんな記事を書いた。よく憶えているんだけれど、実はカッとなって、トイレで書き上げた文章だ。
この「カッとなって」というのは、ものを書くときにすごく役に立つ。私のように私事をとりあえず書くだけなら、カーッとなっていさえすればどうにかなる。まあ別に書かなくてもいいのだけど、そんなふうに書いた文章はあとで読み返すのがとてもおもしろいから好きだ。
年始から、手帳に日記を書いている。月ごとには12月からスケジュールを書き込めるのだけれど、1月からは日ごとのページもあって、なんとなくそこに日記を書いてみようと思って、1月になるのを楽しみにしていた。そうは言いつつ年末年始の雰囲気にしっかり飲み込まれて、日記を書き始めたのは5日からなのだけれど。
日記の醍醐味も、あとで読み返すことだ。たいていは薄っぺらいなあとか、字が汚いなあと思って終わることばかりだけれど、たまには「ああこの時、そうだった。ああそうだそうだ、たしかにこう感じた」と思い出す瞬間があって、それが楽しい。
ちょっと話が逸れた。
書きものだけではない。カッとなって何かを選ぶことがある。そんな時、やってやったぜ、と思う。
根っから悪いことをしない質の人間なので、選んでも選ばなくても、やってもやらなくても、人生にさほどの影響がないことばかりだし、少なくとも誰かに心配や迷惑をかけるようなことではない。だけれど、そういうことを、うじうじと捏ねくり回して考えていたことを、カッとなって決めてしまうのがやけに気持ち良い。
カッとなるのも、決めるのも、自分なのに、自分でない誰かの意志のように感じるからだろうか。いや、カッとなった自分が誇らしいのかもしれない。
実は俯瞰で物ごとを捉えがちな私を、私自身はすこし狡く感じているから、そういう賢さや狡さのない、カッとなれる自分を誇らしく感じるのかもしれない。
ひょっとして「熱く」生きたいのだろうか、私。なんだかわかったようなわからないような、これもまたなんとなく今ふうだ。
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