『シザーハンズ』

アマプラでティム・バートン監督『シザーハンズ』をみた。
抱えきれない感情をここに記したい。
泣きながら布団の中で書いてるので多分いつも以上にぐちゃぐちゃだし見出しもないが許してほしい。

言葉にしたら抱いた感情が全部ウソになる気がして、でも1人で抱えていけるほど強くもない。『戦場のメリークリスマス』をみたときも同様の感情を抱いた。

あらすじはググってください。

エドワードは手がハサミだから握手したりふとした時に人を傷つけてしまう。それは自分も他人も。
何気なく見ていたが、別にこれはエドワードの手がハサミということに限定されないと気づいてから涙が止まらなかった。

何気ない行動が人を傷つける、良かれと思ってやったのに悪い結果を生み出してしまう、空回りしてしまう、ひと言が他人を傷つけてしまう、そんな人たち皆エドワードだ。

私はコミュニケーションの正解がわからない。常に演じて、正解を探し続けている。
いろいろな人と話す仕事をしているが、ある程度基本形を作ってあとは相手の話し方をコピーしながらやっている感覚がある。私自身の素の話し方は存在しない。

コミュニケーションの正解がわからないことに気づいたのはいつだったか。高校生〜大学生くらいだったか。
いじる/いじられると言うとまだ許容範囲かもしれないが、見下す/見下されることでしか人との関係構築ができないような感覚がある。
もちろん例外でそんなことしなくてもずっと仲の良い友だちもいる。
しかし、数少ない仲のいい友だちのうち半数くらいはその子のことを嫌いになってしまっている時期があった。
そのことを思い出してはとても申し訳なく思っている。
ただ、どうしても嫌なとこが目についてしまったのだ。思春期だからという言い訳をして許される行動だったのだろうか?ずっと罪悪感がつきまとっている。その子たちのことは今は大好きだ。今も仲良くしてくれることに対してアリガタイします尊敬しているところがたくさんある。

小学生の頃を思い出しても、申し訳なかったなと思うことや、嫌だったなと思う関係性がたくさんあった。

最近は人見知りといってなんとかやりすごし、会社の飲み会は自分から誘ったりはせず家にすぐ帰るようにしている。仕事の話だったらその枠組みでコミュニケーションを取ればいいから楽だ。不利益を被ってたり、もっと成長できる機会を逃しているかもしれないが、無理に仲良くしようとしても疲れるだけだ。

なんでみんな、先輩や後輩、同輩に気軽に声をかけ、仲良くなっているんだろうか。誘ったからには話すことを提供せねばと思うが、価値観が固まってしまっている私には難しい。多分沢山の人を傷つけてきたコミュニケーション方法にトラウマを持っており、私はもう新しく関係構築する勇気がない。結局中高でも毎年いつメンを変え、毎年なんか仲良くなれないなと思い、クラス替えを迎えていた。
私はコミュニケーションが人と同じように取れないことにコンプレックスを抱いている。
孤独感、疎外感などエドワードに重ねてしまって、涙が止まらなかった。

私はもう私を諦めているととっくに思っていたが、思い込むよう言い聞かせているだけだし、ただ、受け入れて孤独に耐えられるのならばひっそりと暮らしていきたい。
でもそれができるだけの心の強さは持ち合わせておらず、今も持ってるハサミで周りの人や自分を傷つけ続けている。

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