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言葉を尽くして生きる

私が文章を書くようになったのは19歳の頃、オーストラリアに留学しているときのことだ。当時の私は、高校卒業3ヶ月前に休学して、南半球に来ていた。誰に言われたのか覚えていないが、GoogleのbloggerというサービスとFacebookを使って、連日、文章を投稿していた。多くの人は、「今日はオムライスを食べました!」とか「○○に出かけてきた!」とか、そういうことを書いていた。私はそんなことよりも、あなたの内面が知りたい!と思った。ので、私は内面のことを書いた。どういった時に、何に、心が動いたのか。心が動いたことで私は何を感じたのか。また、多くの違和感を書いた。社会人という単語の気持ち悪さや、多くの人が資本主義の奴隷になっていること。目に見えていることよりも、目に見えていないことを書こうとした。こいつは一体、何を真面目に語っているのか、と思われたかもしれない。時々、「あなたは人生に真剣すぎる」などと忠告を受けることもあった。私は現実社会で人と会っても、うまく言葉にすることができない。時には、ブログで数万字を書くこともあるが、人を目の前にしてそんなことをしても、肝心の一言が言えなかったりする。また今日も伝えられなかった。言葉を搾り出すことができなかった、そう思うことが多々ある。

私が文章を書こうとしたのは、自分の中にある、人に伝えられないものが、まさにダムの決壊を起こしたからだ。さらに言えば、オーストラリアで生活をしていて、英語では思うように気持ちが伝えられず、言葉が自身の中で洄游していたのだと思う。その頭の中を泳ぎ回る言葉を、指で捕まえて、画面に起こす。いくらでも、言葉は出てくる。自分の中にある思いをどうにか伝えたい。人と、話してみたい。自分の中にある愛を、好きになってしまった人に、完熟丸搾りで、全部を、伝えてみたい。そういった思いから、言葉を綴り始めた。英語でも詩を作り始めて、ポエトリーリーディングをしていた。不可思議wonder boyを知ったのもこのときだ。ある日、心を休めるために音楽室に向かうと、長いブロンドの髪の女性が、美しく、美しい曲を弾いていた。私はその曲と、その姿に見惚れていた。私の存在に気づいたその人は、ピアノを弾く手を止めて「また会えたらいいね」と言って、音楽室を出た。数日後、たまたま見かけた彼女に話しかけた。私達はFacebookを交換して、連日メッセージのやり取りを始めた。絵を描くこと、音楽を奏でること、自然の中を散歩すること。それらが二人の共通する好きなことだった。

彼女の存在により私はより一層、英語の勉強に励んだ。留学先の学年では1番の成績をおさめ、数学はオーストラリア全土で10何番目かの成績をおさめた。私は留学とは海外に行くことだと思っていたが、実際には海外の学校に通うことであり、それに嫌気が指していた。成績が抜群に良かったので、留学先の学校を休学する許可がもらえ、インターンという名で近くのギャラリーやアパレルブランドに遊びに出かけていた。彼女はある日から、日本に関する書籍や小説をを読み始めていて、私にあれこれと質問をしてきた。私は、これを伝えるには、どうしたらいいのだろうか!この表現では直接的すぎる!海外で人と付き合うというのはどういった感覚なのだろう!毎日、たくさんの疑問が湧き、調べ、実践した。大好きになった人には、私の思いを、そのまま伝えることは出来なかった。言葉だけでは無理だろうと思い、1週間かけて、パワーポイントで告白の資料を作った。言葉だけでは伝わらない可能性があるし、「I love you」じゃ面白味に欠ける。結果的に私たちは、海と見紛うような湖畔でデートをし、通学路を手を繋いで帰り、キスをし、ある日振られた。「私は木星人で、あなたは火星人だから」と彼女は言った。

この体験は、非常にセンセーショナルだった。これをもし、私の母語である日本語で伝えられたところで、理解不能だったように思う。彼女は才能に溢れるが故に、不思議な人で、その言葉が胸に届いたときの私は、妙に納得してしまった。つまり、私たちは別々の星のもとに生まれていて、一緒にはいられない。長々と言葉を費やすよりも、言葉の持つスケール感が、今なら、伝わってくる。いやでも、本当に、私たちは火星人と木星人で、住んでいる星が違うのかもしれない。振られた頃には、言葉が伝わらないもどかしさをある程度乗り越えていた。留学当初は全然聞き取れなかった英語は、高尚なものに聞こえ、クラスメイトが笑っているときもそれについていけなくて、不安だった。ある程度聞こえてくると、全然大した話をしていないことがわかった。そりゃそうだ。10代の人間たちが学校で大層な話をそんなしょっちゅうするものでもない。そして、笑いについても同様で、そもそも私は日本でも人との笑いのツボが違う。ましてや、南半球で何年も育った人たちの感覚が自分の中に大きく育っているわけがない。気にならなくなった。そういった違いをあたり前に受容できたからこそ、では、お前は、俺は、お前は、何を思っているのか。どの事象から何を感じ取り、何を考えるのか、そのことがより重要に思えた。

20代の前半は、年に一人、この人が、今年の私を形作ったのだ!と、断言できるような素晴らしい出会いがった。オーストラリアでの出会いは、前述の彼女ではなく、Aという芸術家である。彼は僕が通っていた学校に通っていた。初対面はトイレで、私の隣でAは用を足していた。学校に数人しかいないアジア人だからか、留学生で目新しいからか、彼は手を洗いながら気さくに話しかけてくれた。そして、学校で受講している6つあるクラスのうち、3つで彼と一緒になった。彼のご両親はヨガの講師と植物学者。おじいさんは、オーストラリアでは有名な彫刻家で国立美術館には作品が収蔵されている。家の敷地は広大で。敷地内に小さな川が流れていて、小さいながらもダムがある。湖と池の間くらいの大きさの水溜りがあり、毎朝そこで彼の両親はヨガをやっていた。Aはその広大な敷地の中でいくつもツリーハウスを作っていた。馬にも乗らせてもらったし、人生で初めて車を運転したのもそこだった。敷地が広大すぎて、車がないと移動できないからだ。めちゃくちゃ広大な土地だったが、彼らの家は、質素なものだった。リビングと、キッチンと、それぞれの自室があるという、必要最低限な広さ。もちろん平屋である。その家での滞在経験や、Aとの交流によって、私は豊かさとは何かを、心から捉えてみたいと思った。

私たちは頻繁に「生きるとは何か」、「人を愛するとは何か」、「人生で成し遂げたいことは何か」とか、そういう話をした。私は頻繁にそのようなことを考える。日本にいた時は、西校の何人かを昼休みや放課後に美術室にあつめて哲学談義をしていた。まさか、そのような話を、海外で、英語ですることになるとは思ってもいなかった。禅の講演を鈴木大拙がアメリカはコロンビア大学で行い、言葉を英語に直し、シンプルにしたことで、日本でも、その真髄なるものが大衆に大きく広まった。そのプロセスのように、私の頭の中のごちゃごちゃが、英語にするという動作によってシンプルになり、私は私の中のことをより理解できた気がする。言葉が多いとか、日本語が母語である、とか、そういった環境で獲得した能力ではなく、英語が喋れない、相手の気持ちがどうなっているのかわからない。だからこそ、言葉を丁寧に選択し、気持ちを汲み取ろうとすること、そういった、弱さから生まれる姿勢が私たちを結びつけた。

日本に帰国し、春には高校を卒業した。大学受験はしなかったので、時間だけはあった。暇だったので、ひとまずビジネスコンテストに出場し、最優秀賞をもらった。当時は若手起業家として何度も新聞などに載った。優勝賞金は、当時大好きだった人とのデートに全て消えた。彼女は優秀な人で、秋からはアメリカの名門、コロンビア大学に進学予定だった。私は言葉が上手いからビジコンで優勝したと思っていたし、実際にその通りだった。何かが違う、何かが違う、と思っていた。なぜならビジコンでは、「私はこんなに優秀です」とか「私にはこんな壮大な計画があり、夢があり、それを実現するためにはこれが必要で、その実行のためのスキルを、私はこれまでのこういった活動から有しているので、必ず実現します」といったことを堂々と喋った。私はプレゼンの才能を小学生の頃から磨いてきたので、会場は湧いたし、優勝するだろうなと思っていた。そして、優勝して、俺は本当は何がしたいのだろうか、と、思った。あらゆる点が素晴らしく、素敵すぎる恋人に見合うように、私に何が出来るのだろうか?と、金を稼ぐのを頑張ったこともあった。2ヶ月で慶應大学の学費くらいを稼いだこともあったが、金を一番もらえた仕事が偉いおっさんの写真をとるという、ルネッサンス期の商業画家みたいな仕事で、頭がおかしくなると思ってやめた。

自分探しをやめて、楽しく生きていた時期もある。その時の出会いはピカイチで、六本木をカリンバを弾きながら歩いていたらとある人に話しかけられた。少しだけ話をすると、名刺を渡された。1週間後に相手からメッセージが届き「ハッピー!まことくん、元気?鎌倉に余っているおうちがあるんだけど、使ってみない?」と書かれていた。なんだこれは、新手の詐欺か、と思って、鎌倉駅の御成口で待ち合わせ、徒歩10分。3階建ての素敵な家がある。その日からそこが私の新しい家になった。一階は4m近くありそうな背の高い窓ガラスで1面が覆われている。二階はアジアンテイストで、透明な硝子の向こうには風呂がある。薄水色のカーテンが一応あるのだが、その向こうにある裸体の影がうっすら見えて、筆舌に尽くしがたいほどに、良かった。三階は和室であり畳部屋である。棚には調度品やお茶の道具が置いてあり、そこで寝転びながら鳶の鳴き声などをよく聞いていた。今でも鳶の鳴き声を聞くと、当時の日々が思い起こされ、思い出で胸が張り裂けそうになる。一階から二階にあがる階段のそれぞれには仏様が何体も鎮座していてる。仏様の効果かわからないが、家に置いてあるもの全てが、大切にされているように感じた。食器もセンスのいいものばかりで、冷蔵庫には高そうな日本酒、ワイン、ジュースやらが入っている。私はその家で2年間過ごした。実際に泊まったのは150日程度であると思うが、そこの家での体験は素晴らしいものであった。その体験から、家に置くものを吟味するようになり、日本全国に出かけては産地の器を買うようになった。エコノミカルな理由で、本当は購入したい器があっても手を出せずで、かわりに手拭や箸置きを集めた。そういった訳で私の家にはそれらが数十ある。酒器も二十はある。

ある晴れた日、楽しく歩いていた時のことである。吉祥寺の器屋で、うつわをジロジロ見ていた。なにせ、こっちは金がないのだから、何を買うかというのは、真剣である。手仕事の器というのは、例えば98%おなじお茶碗が、同じお店に3個とか、5個とか並んでいる。その一つ一つの微差に「この器はこれがいい!」とか「でも、こっちは○○な料理の時に映えそうだな」とか、一個千円とか高くて2万円くらいの器で悩んでいる。その日もそんな風に真剣に吟味していたのだが、とある方に話しかけていただいて、仲良くなった。その人は今野さんといって、その器屋のすぐ裏で会社をやっていた。詳しいことは忘れたが、その日から私は、暇な時は彼の会社に遊びに行くことになった。空いているデスクでひたすらYoutubeを見たり、最近あった面白かったことを聞いてもらったりした。一番特上だったのは、その人が器に対しての造詣が深い方で、器のことをたくさん教えてもらった。器や民藝に関心がある人は知っている人が多いと思おうが、「民藝の教科書」という本がある。その本を監修し、日本全国の作り手を訪ねて動き回っていた久野恵一さんという方がいるのだが、今野さんに紹介してもらった。久野さんと話をした時間は数時間だったが、その後、至る所で彼の名前を見る。数年前になくなってしまったのだが、私が訪ね歩く日本全国の窯元でも彼の名前を知ってる人は多く、彼の名前を出したおかげか、沖縄の横田屋窯では、大変よくしていただいた。

1年前からは、エスペラント語の学習を始めた。今年の春からは毎日学習していて、今日で264日連続である。きっかけはランニング中。町の掲示板で「エスペラント語を学びませんか?」の張り紙を見つけた。土曜日に90分の講座を全6回、資料代含めて3000円と書いてあった。おお!伝説の言語だ!と思って、電話をして、受講を申し込んだ。レッスンは1回3000円かと思っていたら、全6回で3000円だった。やばすぎる。巷の英会話教室は1回3000円とかですよ!ぼくも家庭教師をやっていたときは一時間で1万円もらっていのだが、素晴らしいものを広めたいからこの3000円というのは、テキストと会場となる公民館などの賃料とのことで、その精神性に感化された。私は小学生の頃は富士スカウトを目指すくらいの勤勉なボーイスカウトだったために、奉仕だとか、善意、福祉、そこに、邪のないものを見つけると、心から盛り上がる。受講を始めて1年が経った。12月20日が今年最後のレッスンだったのが、レッスン後に阿佐ヶ谷のラオス料理店で食事をしていると、ユダヤ人の話になった。ユダヤ人は迫害をされて生きてきた。あらゆるものを奪われた。なにもかも。だからこそ、勉強をした。土地も、金品も奪われたとしても、体験や知識、学んだことは誰からも奪われることはない。その努力故に、ユダヤ人は多くの分野で成功をおさめている。その話を聞いて思ったのは、私ももっと、勉学に励もう!という意識である。私は、日本語である母語を含め、現在8ヶ国語を習得中である。これは、いつか、いやすでに、とんでもない財産である。

そして、美意識。三好さんの鎌倉の家で素晴らしいものに囲まれて育ち、今野さんから器の見方を教わり、日本全国、そして南半球を旅してきた。その経験は誰にも奪われることはなく、いや、多くの人に共有したい私が素晴らしいと思った様々がある。そのためには、言葉を尽くす必要がある。体験は、モノは、言葉ではないから、尽くしても、尽くしても、尽くし切ることができない。しかし、尽くし、というのは、その尽くしきれなさが語源であり、尽くそうとしても、尽くそうとしても、尽くしきれないほどに、そのものは素晴らしく、世界はそういったものに溢れている。そういった祝いの精神性が、尽くしの中にはある。私は、言葉を尽くして生きる。28年生きた。生きても、生きても、まだ、心臓は動く。この指が動いているからこそ、ここに文字が続いている。言葉を尽くして、生きることを尽くして、この世に溢れている尽くしても尽くしても、尽くしきれないほどの素晴らしい様々に出会って生きたい。そして、私もその一部となり、筆舌に尽くし難い存在となりたい。


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