現実への再現性を「絵画」は「写真」を超えうるか

ぼくは元々、絵を書いていたような気がして。時々、いつから?なんて聞かれるけど、意識して絵を書くなんてことはありえない。〈はじめに言葉があった、言葉はかみとともにあった、言葉は神であった〉と同等に、行動のはじまりというのは、神聖なものである。(矛盾するところがあるけれど、)今では、写真、音、あとは説明不可能なオルタナティブとでも呼んでおこうか、そういう作品をつくるといった行為?、、、呼吸?をおこなっている。


2013年にカメラというものを日常的にさわりはじめてからは、「絵画」と「写真」を対立させてみることがあった。高校までの美術教育は、年代とか言葉を覚えさせるばかりで、美術とはそもそもなんのか。なんて置き去りで。知能だけでなく、世界を五感を通して理解していくという、あらゆる職業に求められる力、いや、あらゆる社会や人々になくてはならない力という認識がまったく欠けていた。そんなんだから、「絵画」というものを語るときに、再現性、というものばかり見てしまう時期があった。


再現性でいえば、「絵画」は「写真」に圧倒的に劣るのだろうか。時をさかのぼる。小学生のときにチョークでかいた自画像なんて、具体への再現性からいえば、ひどいものだった。なんで写真っていう便利なものがあるのにそれを使わないんだ。とか、鏡をそのまま課題として提出すればいいだろう。なんて考えていた。この前は友人に教えてもらい、ネットをみると、ぼくの絵をみた知らない人が「へたくそ」とだけ書いてレスを立ち上げているのを発見した。それは「両性具有的自画像」という1.6m×1.3mのキャンパスに高校生の時に書いたものだ。


話をもどす。


しかし、時に、絵画が写真に対して、再現性を超えることがあると考える。(そもそも、この対立自体が無意味に思えてきたが)。フランシスベーコンという著名な画家が描いた人物を見たことがあるだろうか。具象絵画と呼ばれたりしているようだが、彼の絵は、大胆な筆遣いで極端に人間の姿がデフォルメされ、グロテスクに誇張されている。しかし彼の魅力的なそれらを眺めていると、彼が描きたいものはこの手法でしか可能ではなかったのか。人間を描くためには、時間や、内面や、おおくのデータをそこに集結させたときに、それらを「再現」するためには、この手法でしか不可能ではなかったのか。と考えてしまう私がいる。


指をぽちっと、カメラのどこかについてるボタンに押し付ければ、写真を撮れてしまう現代において、「写真」、いやそのpicture dataについて考えてみる。たしかにそこには目の前の事物の光の軌跡が写っているだろう。(では、現実とはなにか?と考えたくなるが我慢して。)しかし、その即物的なリアリズムの産物が、私が追い求めている「再現性」をつよく実現しているとは思えない。では、そこには何が写っているのか。と考えると、やはりそこにも、一種の現実を映し出したものがあり、そこから何をよみとるのかは人間の知性である。いやいや、それは傲慢ではないのか。と、写真が一体なにを写しているのか、絵画には何を描くことができるのか。と、今も私は呼吸を続けている。

いただいたサポートは、これまでためらっていた写真のプリントなど、制作の補助に使わせていただきます。本当に感謝しています。