食パンは前の日。

先ほど湘南台を歩いていたら、車に轢かれそうになった。前方不注意の車は、そう珍しいことではない。目をはなしたすきに食パンが焦げてしまうように、ぼくの命もあっという間に炭化してしまうんだろう。


こんな時に、携帯やネットはなんの役にもたたない。この文章は生存報告でもないし、誰かから特定のコメントをもらいたいわけでもない。特別大切にしたい誰か、というのも、誰かのままで、顔が思い浮かぶことはない。しかし、それを悲しいとも思わない。平凡な毎日のつづきのなかに死が転がっていることを、日記のようにここに置くことに意味があると思った。


おととい、小学校のころの友人にあった。Facebookをみたらしく、画面の向こうのぼくがなんだかすごい人に見えたらしい。TEDxで登壇したり、ビジコンで優勝して起業したり、幾つかの新聞にのったり、展示をしていたり。そういった活動実績が増えれば増えるほど、自分の社会の中での小ささを知る。そんなものが増えたからって、なんだって言うんだ。


ぼくは中学の時に、自分をなんども殺しかけた。なんとなく呼吸することが申し訳なくて、勉強するために、部屋の電気や、鉛筆を消耗することを、自分に許すことができず、ただひたすらにうずくまっていた。そんなんで塾にもいかず学校で成績が一番良かったから、他人を見下していた。そんな自分を軽蔑した彼の向かう先は、自殺しかなかった。


当時のぼくと、FBの彼を比べると、ずいぶん成長したかもしれない。ただ、過ぎ去ってしまえば、自殺も、権威も平坦で、朝食のパンが、うまく焼けたか、すこし焦げたか、その程度のことでしかない。喜怒哀楽に優劣なんてないし、エジソンだからって偉いなんてことはない。どうせ人間は死ぬからではない。全てが日常の一部であるからだ。


これから生き続けている間は、幾人もの人と時間をともに過ごすんだろう。ただ、そのほとんどの人とは、それっきりだろう。いまは、SFCという大学に通っているが、そこの知り合いとも、あと1回でも食事をとる人はほとんどいない。これは比喩とかではなくて、実際そうだろう。だから、できるだけ丁寧に過ごしたい、と思う。

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