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18才、同級生に贈るちょっと早めの卒業式。

2012年12月21日。8年前、当時高校3年生だったぼくは、一緒に卒業することができない同級生、そして後輩たちに向けて、ぼくなりの卒業式を実施しました。その時の記録をnoteにまとめました。最後まで読んでいただけると、幸いです。

受験勉強をまったくしない高校3年生

 今から8年前、ぼくは高校3年生だった。クラスには1人だけ受験勉強を全くしていない18才がいました。というのも、5月にぼくはとある計画を決めました。卒業式直前に休学して、オーストラリアに留学するというものです(詳しくはこちら)。なので、高校生活の3年間を過ごした友人たちと、卒業式を一緒に迎えることはできません。

 友人たちの引退試合を見届け、だんだんと受験モードに変化していくのを感じていました。バカな話で盛り上がっていた休み時間も、寄り道をする放課後なくなって、みんなただただ勉強している。同級生が勉強している間、ぼくは1、2年生と遊んだり、美術室で絵を描いてすごしていました。

 状況が変わったのは夏休みも終わりの頃。なんとなく見つけた講演会。ぼくが会場に到着したころには、お目当の話はすでに話は終わっていました。しかし、会場の熱気は伝わってきます。会場にいた人にどんな話だったか尋ねると、

「すごかった!」

 目を輝かせて話すその人の感動が、ぼくにも乗り移ってきそうでした。しかし、肝心の内容を聞いても全然わからない。すごすぎて、処理しきれていないようでした。一体ここで何が起きていたんだろう。ぼくが見逃したその講演は、素晴らしいものだったに違いない。なんで、そんな素晴らしいものを見逃してしまったのか。しまった。。。。


りんごとの出会い

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 いつのまにか、その講演者の方にメッセージを送っていました。いい感じに無鉄砲で、でも、すごくいい決断をしたと思っています。翌日にはその方から返信をいただきました。

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 その講演者の方は、現在はCommunica Co., Ltd.の代表であり、元アップルジャパンの代表をやっていた山元賢治さんです。 

2004年にあのスティーブジョブスより直々にヘッドハンティングされ、
アップル・ジャパンの代表取締役社長に就任。どん底の状況からiPodビジネスの立ち上げからiPhoneを市場に送り出すまで関わり、アップル復活の舞台裏を知る唯一の日本人経営者。
国内の最高責任者としてアップルの復活に大きく貢献。
当時のアップルジャパン㈱をV字回復させた。
現在は株式会社コミュニカのCEO兼Founderとして自らの経験をもとに「これからの世界」で活躍できるリーダーの育成、英語教育に力を注いでいる。

(参考:https://communica.co.jp/teacher/yamamoto-kenji/

 私は、返信をいただいてからすぐに、文面に書かれていた「(2)学校で講演会をひらく」ための準備を始めました。そして講演会準備の間に、返信の中にあった残り2つを実践しました。「(1)直近の講演会を調べて参加」し、「(3)著書を買ってすぐに読破」しました。山元さんに言われたことを素直に実践しました。

 しかし、講演会を自分で企画する方は難航していました。こういったことが人生で初めてで、自分の未熟さ、無計画さ、学校との調節などのいくつもの課題があり。講演会の話が2度、白紙にもどりそうになりました。でも、熱意が通じたのか、最初にメールをしてから4ヶ月後に講演会をすることが決定しました。

 また、講演会の名前をキャッチーにするために「りんご会」という風に名付けました。講演者の山元さんが元アップルジャパンの代表であること、ぼくがりんごが好きであること、がその理由です。


講演会準備のためのハードル

 当時のことを振り返ったみたいと思います。まず全校生徒約900人の学校で250人の集客というハードルがありました。そのために、1、2年生で興味を持ってくれそうな人に声をかけ、実行委員会を組織しました。手分けして、全学年の全クラスに行き「こんなことをやりたいと思っています!」とプレゼンをし、全校集会ではじめて手を挙げて講演会の告知をしました。それでも、認知をしてくれている人は少ないないだろうと思い、チラシを作り全校生徒に配布。色んな部活の部長や人気者にお願いして、メーリングリストで講演会の案内を拡散してもらいました。さらには「来ることを前提とした(図々しい)アンケート」を作りました。笑

「あなたもご存知の通り、今度すごくいい講演会があります。いつなら来足を運べますか?」という、講演の日程候補を書いたアンケート用紙を900枚刷って、全校生徒に配布しました。


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 こういった準備と、イベントの周知の結果、やっと講演会が学校で実施できることになりました。そのあとも、何度かメーリングリストで「イベントの案内」を送ったり。ポスターをつくって学校の色々なところに掲示をして、たくさんの人に足を運んでもらうための準備を地道に進めていました。学校でも講演会などは開催されていますが、生徒主導でここまで大きな講演会を行うのは、初めてのようでした。

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このポスターを全クラスの黒板に貼らせてもらいました


2012年12月21日、講演会当日 

 そうした準備の末、やっと当日を迎えました。2012年12月21日の放課後に、「りんご会」という講演会がスタートします。当日、本当に人が来てくれるのか、心配で、心配で。でも、ありがたいことに実際には思っていたより人が来てくれました。嬉しかったのは、受験勉強で忙しいはずの3年生が一番多く参加してくれたことです。彼らは会場の掃除をしたり、受付を自主的に手伝ってくれました。250人の集客目標でしたが、300人近くが会場に集まり、そのうち3年生が120人、2年生が100人、1年生が80人といった具合です。

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 その数字に比率に、これまで自分が過ごして来た3年間の高校生活が反映されているように感じました。ぼくは美術部でしたが、なぜか運動会の時に応援団の団長をやったり、勝手に100人規模のフラッシュモブをやったり、くだらない非公式の集まりを主催していました。当日来てくれた人々の顔は、知っている顔ばかりで。客席が埋まっていくのを見ていて、なんとも言えない安堵と安心感と興奮が募っていきました。

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 講演会はもう8年も前ですし、当時のぼくがどんな気持ちだったか正直覚えていません。でも、すごく興奮していて、山元さんが用意して来た映像がめちゃくちゃかっこよかったことを覚えています。講演は時間ギリギリで終わり、それでも質問したい人がたくさん来て、「やってよかった!」と思いました。ただ、警備員さんには「早く敷地から出て下さい」と怒られた記憶があります。笑

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制御不能になった達成感と多幸感

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 この上の写真は、翌日にFacebookにアップしたぼくの投稿です。その日の夜は、疲労と、色々なものへの感謝で3時間近く泣き続けていました。

人生最後の日でも良いかもしれない、それほどに幸せ。幸せ。でも、関わってくれた人々に感謝しなきゃな、恩返さな当分死なん。この3年間での繋がりに本当に感謝している。色々を、鮮やかに思い出されて、今もの凄く満たされてる。
その大切な方々がみな、満足をして会場を後にしてくださった。アンケートの結果も、みててニヤニヤしちゃう、また泣いた。どんだけ泣くんだよ!って自分で思うくらい、溢れてくる。達成感と、感謝で涙がとまらん。環境がよすぎるんだ、だから僕は幸せなのか。ご縁に感謝、西高で僕はよかった。

 こんな体験は、生まれて初めてでした。それまで泣いたこともあまりなく、自分が壊れてしまったかと思いました。こんな気持ちになったのは、それまでも、そのあともなく、人生で一度きりです。そして、可能ならあの時以上の感覚を、もう一度味わうために、今日も生きているのかもしれません。そう思うほどの、溢れ出て制御不能になった達成感と多幸感を体験した日になりました。

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 これは、講演会が終わった夜に、講演者の山元さんにおくったメッセージです。その夜は、集計したアンケートを読んで泣いていました。そして、次に学校にいくと、色々な友人から「行ってよかった!」という声をかけてもらい、何人かからは長文のメッセージをもらいました。


同級生から届いたメッセージ

 3月の終わり。同級生の卒業式が直前という時期に、受験を終えた友人から以下のメールが届きました。

「今まで、辛いときでも頑張って、受験を乗り越えられた原動力になったのは、まこっちゃんが主催してくれた講演会の山元さんの話を聞いたときの自分の気持ちや決意だったから、まこっちゃんには絶対に報告しないとと思ってメールしました。笑

 これからは受験勉強じゃなくて、自分が興味あることや、本格的に理学療法の勉強ができるから凄く楽しみっ!!これで私の夢に一歩近づいた」

 彼女はその後、京都大学の医学部で理学療法士に成る為の勉強をします。こういった連絡がいくつも届きました。ぼくはこの講演会を通じて、学校に良い影響を残せたかと確信しています。

 

講演会を企画して伝えたいメッセージ

 最後に、なぜぼくが講演会を実施したかったのかについて話します。ひとことで言えば、「変を実行することで、変の循環が実現するから」です。母校の西高は、都立高校のなかでもちょっと変わっていると言われることが少なくありません。

「西高は変わっている」と思って入学して来る人がおおく、ぼくもその1人でした。入学して見て、やっぱり西高って面白いと思っていました。 ところがだんだん日々に慣れていくと、西高って普通かも‥‥という気持ちが強まりました。2年生の頃にはすっかり、「西高はなんて平凡だ。なんてつまらない学校なんだ」という認識に変わりはじめていました。

 しかし、3年生という最高学年になります。ぼくは受験勉強がないので、1、2年生とよく遊んでいました。ある日とこんな妄想をはじめました。在学中、西高のことを、自分自身のことを「変」だと思い続けられれば、その人は本物の「変」になれるし、そういった人が触れれば、本当に「変」な学校になることができるのではないか。例えば、新しく入ってきた新入生が「この学校、変」と思い、その気持ちを卒業まで3年間持ち続ける。学校を先導する最高学年になったとき、西高は自他ともに認められた変になる。そうすれば、次からの入学生も変にならざる得ない。

 だから、ぼくは、新入生たちが西高を変だと思い続けられるように、変なこと、面白そうなことをいろいろ試してみました。友達と顔を真っ赤に塗ってガチャピンとムックの変装をし、新入生歓迎会の邪魔をしました。図らずも人気者になり(!) 、周りの部活からは邪魔者扱いされました (笑) 。1年生とサークルを立ち上げたり、東北支援の団体を立ち上げたり。

 行動することによって「変」を具現化しようと考えました。その集大成が、講演会です。西高では、こんなに面白い人を生徒が勝手に呼んで、立派な講演会を企画するんだぞ!ってことがやりたかったんです。講演会をとおして、「自分を変って、信じ続けて」というメッセージを送りたいと思っています。これが、高校で実施したぼくなりの卒業式です。

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高3の時のぼくです。かわいい
 

PS1: 最後の段落は、以前、河合塾みらいぶさんに取材を受けたときの記事を、自分なりに改変したものです。原文はこちらにあります。

PS2:1年後、復学したぼくはもう一度、学校で講演会を実施しました。その第2回は、アメリカ在住のアーティストの飯富崇生さんとジャーナリスト芦刈いづみさんをお呼びしました。詳しくはこちらにありますので、よければご覧になって下さい。


 

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