【短編小説】 『跡形も無くしっかり除菌ウエットティッシュ』


「そんなのさー、自己責任じゃん?何で私が迷惑被らなきゃいけないの?無能ってマジで迷惑。……っあー、もう!ソース手に付いた!何でサラダラップをこんな巻き方にするかな。これじゃソース垂れるに決まってるじゃん。どいつもこいつもバカばっか」
「まあまあ」
 私は鞄に入っていた『跡形も無くしっかり除菌ウエットティッシュ』を開けて恭子へ差し出した。
 午前の仕事が平穏無事に終わり、お昼はサバの味噌煮定食を食べようと社食へ向かっていたところ、恭子に「サラダラップが食べたい」と捕まってしまった。口の中が完全にサバのジューシーな身と、とろっとした風味高い甘味のある味噌を欲していたので、私はそれだけで気持ちのタンクが半減した。
 恭子は何も言わずに差し出されたウエットティッシュを、新調したベージュのネイルをした爪で一枚摘み引き出し、手に付いたソースを叩き落とすように乱暴に拭いた。
 自分は正しい。だから自分以外の人間が自分の想定する状況までリカバリーをするのが当然。そして、それにより自分の機嫌は損なった。なので、気分も元の状態より良くさせて。と言わんばかりの態度を恭子はいつもする。人への要求は高いが自分の機嫌一つ取れないのが恭子という人間だ。人間性がうつらないように、適度な距離感で接するのが正解だと私は思っている。
 その一方で、無茶苦茶だけど自分の意思をちゃんと伝えている恭子に私は憧れを抱いてしまう。私もこんな風に強く生きることができたら、なんて思っていても誰にも言えない。
 ペロンと剥がれたウエットティッシュの蓋を、本体と繋がっている方から空気が入らないように指でしっかり密着させ、また直ぐに使えるようにテーブルの隅に置いた。
 私が顔を上げると、恭子は忽然と姿を消していた。
「恭子?」
 私は周りをぐるっと見渡すけれど、恭子の姿はどこにもない。テーブルの下を覗き込んでみるが、そこには恭子が使ったウエットティッシュが落ちているだけだった。
 私はそのウエットティッシュを摘み上げた。微かに恭子の香水の香りと混ざって、柑橘系に近い爽やかな匂いがする。この匂い、昨日の……。恭子、手を洗いに行ったのかな? 私はそのウエットティッシュを紙ナプキンに包んで、燃えるゴミへ放り込んだ。
 しかし恭子が戻ってくることはなかった。
 
 『跡形も無くしっかり除菌ウエットティッシュ』を使った人が目の前から消えた。本当に跡形も無く。なに、このウエットティッシュ。薄気味悪い。
 奇妙なのは私がこの『跡形も無くしっかり除菌ウエットティッシュ』を使っても、私は消えないことだった。持ち主だからだろうか? それとも何か別の理由があるのか? 考えたくても事例が恭子しかないので、可能性が無限になってしまう。
 このウエットティッシュは、昨日、見知らぬお婆さんからお礼で貰ったものだった。
 
 昨日、大きな手さげ袋を持っていたお婆さんが、躓いたひょうしに袋を離してしまい、中身が飛び出してしまったところに偶然居合わせた私は、それを一緒に拾ってあげた。散らばったモノは見たことのない植物の実だった。全て拾い上げたあと、そのお婆さんはこのウエットティッシュを差し出し「手を汚してしまって申し訳ないね。これよかったら使って」と軽く会釈をし、せっせと歩き去ってしまった。
 そのとき拾った植物の実の匂いと、このウエットティッシュが同じ匂いがする。
 私は怖気が全身を襲うと共に、心が奮い立つような、おぼえてはいけない好奇心が芽生えた。
 本当にこれが原因で人が消えるのだろうか?

 私は嫌いな同僚に狙いを定めた。
 そいつは恭子によく似た性格の男。独りで仕事をしてるつもりのようで、何も考えずに偉そうに口だけを出してくる。「自己責任」っていう言葉が好きなわりに、自分では一切責任を取らない。失敗したことは全て相手の過失であり間違いであり、自分は被害者なので責任を取る必要がない。そんな奴。
 私は慎重にタイミングを見計らった。そいつが独りでいて、なおかつ人目のない時を狙って。
 少しずつ、そいつの社内でのルーティンがわかってきた。毎週木曜日、そいつは必ず残業をする。そして、休憩は社内のフリースペースの窓際の端で取ることが多い。あそこなら人目につかない。それ以外もわかったことがある。チョコレートが好きだということ。そこで私はひとつ案を思いついた。上手くいくかはわからないけれど。イケナイ好奇心が沸々と興奮に変わっていくのを感じる。
 
 実行日当日、私は昼休みを利用しタクシーで有名なチョコレート専門店へ向かった。高級な生チョコを購入するために。ココアパウダーがたっぷり付いた、熱に弱い、口溶け滑らかなチョコレート。高級な生チョコを買った理由は、もし本当に消えてしまった時の為の、私のせめてもの償い。
 私は定時が過ぎると、そいつの行動を意識だけで追い続けた。腕を組みパソコン画面を見ながら何かを考えているフリをする。そいつが早く休憩を取ると人が居て実行できない可能性があるし、遅いとその分私が不自然になる。人差し指で二の腕をトントンするのがやめられない。焦りと歯痒さがイライラへと成長を始める。
 ついにそいつが席を立った。キタ。私はその後を、生チョコと『跡形も無くしっかり除菌ウエットティッシュ』を持ち、ついて行った。
 
 うん、ちゃんといつもの場所にいる。そして人も少ない。私は絶好のチャンスだと確信した。
 ふんぞり返って景色を見ながらコーヒーを飲んでいるそいつの少し離れたところで、私はわざと椅子を少し音を立てて引いた。椅子の下の古くなったゴムみたいなやつが劣化し、ガガガッと不快な音を立てた。眼光鋭くそいつがチラッと私を見た。
「あっ、すみません。お疲れさまです」
 私は申し訳なさそうな顔を見せたにもかかわらず、そいつは私のことなど無視して景色に戻った。まあいい、そんな奴だから消すんだもん。
 私は生チョコの箱を開封し、ひとつ、そしてもうひとつ食べた。生チョコが口の中で滑らかに溶けて消える。濃厚な甘美。
 私は立ち上がり、生チョコとウエットティッシュを持ち、そいつに近づいた。危機を感じる。攻めているのか迫っているのかは、今の私にはわからない。私は必要なことのように息を潜める。
「あの、お疲れさまです。今日残業ですか?」
 そいつが面倒くさそうに私を見る。
「何か?」
「あの、これ、良かったらおひとつ食べませんか?これ有名なチョコレート専門店の生チョコみたいなんですけど、凄く美味しくて。今日頂いたんですけど、なんか独り占めするのが申し訳ないくらい、美味しいんです。あと、金井製薬の件、いつもありがとうございます」
 私は頭を下げて、ずいっと箱を突き出す。そいつは戸惑った様子でモゾモゾと座り直した。
「えっ?何急に……」
 そいつはそう呟いて、差し出された箱を覗き込んだ。金井製薬の案件は、そいつがただ口を挟んでいるだけなので、本当はお礼を言うことなんてない。
 私はそいつが食べることが当たり前のように振る舞い続ける。
「すみません、私がフォークを使ってしまったので手でもいいですか?ちゃんとウエットティッシュあるので」
 そいつはドギマギしながら「じゃあ」と言って生チョコをひとつ掴み、ココアパウダーが舞い散らないようにきちんと手皿をした。手皿をした手のひらにココアパウダーが足跡のようにパラパラと落ちる様子に、私の期待が直角に上がる。
「うん、美味しい。一個で十分。ごちそうさま」
 私は生チョコの箱を置き、『跡形も無くしっかり除菌ウエットティッシュ』の蓋を開け「ひとつでいいんですか?」なんて思ってもいないことを発して、ウエットティッシュを引き出しやすいように、そいつに口を向けた。
「どうも」
 そいつは小指で器用に隙間を作って一枚引き出し、指先と手のひらに付いたココアパウダーをウエットティッシュに移していく。私はその行為を凝視してしまう。本当にこれで人が消えるのだろうか?今この瞬間、聞こえているのは私の心臓のト、ト、ト、という規則正しい脈だけ。もし本当にこれで人がひとり消えたら、私は、どう生きていくことになるのだろう。今よりも安心して生きていけるようになるのだろうか。数秒先の未来を馳せる。

 ――ヒラ
  音のない音が耳に入ってきたような気がした。ウエットティッシュが、そいつが座っていたはずの椅子の上に何事もなかったかのように、ただ、そこに落ちていた。
 本当に消えた――。本当に、本当に消えた!私は『跡形も無くしっかり除菌ウエットティッシュ』を強く、強く握りしめ抱きしめていた。そうでもしなければ、この場で小躍りしてしまいそう。
 身体がカアっと熱くなる。
 長かった。私の人生を振り返ると、誰かにずっと合わせていた。気を使って何も言えなくて。他人の機嫌をずっと取っていた。でももうそんなことする必要がない。私が手に入れたのは嫌いな人を消す魔法のウエットティッシュじゃない。自分の人生だ。これでようやく私は自分らしく、自分の人生を生きていけるんだ。
 幸福と興奮が入り混じって心が震える。

 私は椅子に落ちたウエットティッシュを摘み、高く掲げてみた。そこにはココアパウダーで描いた点線で成り立つアートのようなものができていた。爽やかな柑橘系に似た匂いが漂ってきて、冷めない興奮を鎮静してくれる。
 さあ、日常へ戻ろう。
 私はそいつが残したコーヒーを片付け、ココアパウダーが付いたウエットティッシュを燃えるゴミへ、両手でグシャグシャに握り潰してから捨てた。
「私に嫌われることするから。全て、自己責任なんでしょ?」
 そう吐き捨ててやった。
 
 フリースペースを出た私は、一旦デスクに戻ることにした。誰にも生チョコとウエットティッシュを見られてはいけないような気がして、急いで鞄へしまう。そろそろ仕事にも戻らなければならない。早く手を洗わなければ。あいつが使ったウエットティッシュを握り潰したはいいけれど、この手のままではやっぱり気持ち悪い。私は足早にトイレへ向かった。
 
 ハンカチを取り出して小脇に挟む。鏡に映った私はいつもより綺麗に見える。高揚しているからなのか、顔の血色がとてもいい。鏡の私に笑顔を送って、背筋を伸ばす。すごく気分が晴れている。
 袖をまくって石鹸をたっぷり出し、丁寧に手を洗う。
 完全勝利ってこんなに気持ちがいいものなんだ。「自己責任」とは、なんて都合のいい言葉。脳から経験したことのない快楽物質が溢れ出ている気がする。
 そうだ、この『跡形も無くしっかり除菌ウエットティッシュ』をくれたお婆さんを捜さなければ。ちゃんとお礼を伝えたい。そしてあわよくばもう一個……。
 手を洗い終え、ハンカチで水分を拭き取っていると、あの柑橘系の爽やかな匂いがした。
 ん?匂いが落ちてない?
 私はもう一度、石鹸をたっぷり出し、爪を立てて手のひらを引っ掻くように洗った。手のひらが充血して真っ赤になるほどに。本当に人を殺したみたいで笑える。
 水で石鹸を洗い流し、濡れた手を鼻に付きそうなギリギリのところまで近づけ匂いを嗅いでみる。良かった、ちゃんと落ちてる。
 腕まで滴った水をハンカチで丁寧に拭きあげる。
 やっぱり、どこからかあの柑橘系の爽やかな匂いが漂ってくる。どこから?何で?もしかして、この匂い、一生付きまとうの?どうしよう。人を消したことがある人間は、一生この匂いが纏わり続けるのかもしれない。そんな妄想に苛まれる。
 あっ、違う、ハンカチからだ。なんだ、これから匂いがするのか。これって洗濯すれば匂――――
 
 誰もいないトイレの洗面台の前に、ハンカチが一枚落ちてる。
 

 
 

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