目に写るモノが全てではない
先日、シェムリアップ市内から離れたトロぺアン村に行き「earth tree village」を見てきた。そこで感じたことについて書いていく。
自分の価値観や考え方を改めて見つめ直すことが出来た。セブ島に行った際にも、そんなことを日記に書いたように思う。
今回の、トロぺアン村で一番考えさせられたことは毎日自分で選択して食べ物を食べ好きなように予定を入れて、バイトをしたり遊んだりできる。選択ができる。これが、当たり前ではないということ。毎日の中で、意思決定をし選択をして行動するのは当たり前ではないとうことを思い知った。
貧困と聞いて何を考えるか。私は、ユニセフのポスターに写る子供の写真が浮かんだ。貧しくて可哀そうとか、とにかくマイナスのイメージが多いのではないか。実際に、村に行き感じた印象はとにかく子供たちは笑顔で幸せそうだった。きっと、日本の通勤電車に乗ってる社会人よりはるかに笑ってる時間は多いと思う。幸せそうだった。お金も食べる物も日本と比べたら少ない。でも、一年間のお米の蓄えはある。透明な水も出る。洋服も着ている。まだまだ足りないけど、私は子供たちの笑顔を見て可哀そうとは思わなかった。ただ、その子たちは自分の好きなように将来の選択は出来ないのが… そんなのはおかしいと思った。
たまたま日本に産まれれば、お金はない環境で育ったとしても自分の努力次第でいくらでも人生は変えられるしバイト出来る年齢になれば旅行にも行ける。
たまたま、カンボジアの村に産まれただけで将来の道はほとんど決まっている。子供たちは、国語と算数を小学校で学んでいる。お母さんは畑仕事、お父さんは出稼ぎに行く。村には、職業が先生しかないからほとんどの子供たちは将来の夢先生と答えるとは聞いていたものの実際に、通訳してもらって将来の夢を聞いたら先生と答えた。聞いていた話が繋がった時に、涙がこぼれた。初めてその子たちのことを、可哀想と思ってしまった。初めてその村で私の名前を呼んでくれたレアちゃん。レアちゃんの夢は、先生で理由は、多くのひとの役に立てるから。とても立派だけど、他にも沢山職業があって選択できるんだよ
春から、半年近くこの村でインターシップをすることが決まった。小学校の他にも、宿泊施設やレストラン診療所が建てられる。料理人、ウエイトレス、病院の先生少しずつであってもこんな仕事があるんだと知ってほしい。そんなきっかえを作るお手伝いをしたい。自分に出来ることは小さいかもしれない。でも、いつか将来の夢を沢山持ってる子供が一人でも増えますように。
セブ島で初めて、スラム街を見て感じたあの感情。
何も出来ない自分の無力さ。
それが、違う場所でありながらも貧困の生活を目にし目に写るモノは全てではないと知れた。
春から半年間インターシップでこの村に行ける。何も出来ないかもしれない。でも、何かしてあげられる環境に身を置けることが決まった今私は本当に幸せ者だな
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