ある憂いと憤怒
絵筆を使って、思い切り暴れたい。
深夜4時。風邪の体調不良に乗じて、神経過敏のまま今からそんなことを書こうと思う。
以下、そんなことを「感情」とか「本質」とか「芸術」だとか、言葉を適当に見繕いながら書こうと思う。
それをしたい、させたいのは俺自身なのか俺の一部の何かなのか、人間のシステムなのかよくわからないけれど、今純粋に描いてしまいたい。
こればっかりは、言葉だけでは、見つからない気がする。
今何を言っても嘘になる気がする。
世界と人間の傷口を写真と刷毛で見せつけられたことがある。
傷口は芸術と同居していいのか、議論になったことがあったと言うけれど。そんな感情が嘘になる気がするのも、人間の常か。
傷口を見なければ、見ようとしなければ、風邪で寝込まなかったような気もする。「普通」に働いて、美味いものでも食べて、何も考えず帰宅してすやすや寝ていた気がする。
母を思い出した。
厚顔無恥、とまではいかないが、傷口に気づかず生きてしまえるように見えた母に対して、そこに関して俺はよくない感情を持っていた。
俺は傷口から遠いところにいた。
傷口から遠ざけようとしてくれた。
こんな状況になると、そんな母に甘えてみたくなるものだ。
労わりたくなるものだ。
何が正解か。
人の一生は一瞬だから、どれも正解だ。いや、どれも間違っているし、正解も不正解もないんだねきっと。
最近、傷口というか穴に、すでに我々は飲み込まれているのではないかと思うようになった。我々、というのがどこまでなのかもよくわかっていなかったけれど、そしてその枠組みをあまり意識しないようになっていたけれど、そろそろ無理かもしれない。
歴史の中で否応なく人間は分けられ、成長と衰退を繰り返し、流れの中に身を置かされてきた。いや、そもそもマクロに見て一つというわけでもなかったのだから、違うのか?正直にいうと俺はそんなこともわからない。
我々が生まれる前の話。
初めから国家がインストールされて生まれてきた。
その我々という感覚。
成人するまで、そして成人後もまた違う形で幾度もそれが脅かされ、アップデートされてしまう機会がある。
それでも、残っていた。我々。
意識なんてしていなかった。
だが壊される神社仏閣、物語に対し何を思うだろうか。
知らなかった、気づかなければ良かった、なんてもう俺には言えないかもしれない。
2024.10.4 5:00
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