演目 美しさについて

老いた賢人は世界の全てを知っているという。
みな、彼の言葉を信じた。
賢人は巨大な真実の鏡を使って、美しさは全てまやかしであると語った。

みな絶望した。

鏡の中の我々は骨であり、樹木は根こそぎ朽ちていた。鏡の中でも当然時間が流れており、骨すら少しづつ端から塵になっていくのがわかった。

故郷の緑や市井の暮らしを描く画家は筆を置き、恋情を歌う詩人は口を噤んだ。
私の隣家の若い夫婦も愛し合うのをやめたらしい。
なにもかも嘘っぱちだったのだ。

そのうち全ての嘘が剥がれて、鏡の世界もこの世界も、ほんとうに大差ない色合いを呈してきた。
賢人は自身の正当性を証明したことで満足げだった。

わたしはというと、やはり絶望していたのだと思うが、最後に一つだけ確かめてみようという気になった。わたしがまだ学徒だった頃、よく一緒に遊んでいた美しい娘のことだ。
あの娘の美しさも嘘だったのだろうか。それを確かめに、昔暮らしていた村へ向かうことにした。
村はここから相当に遠かった。

道中、あまりに色のない景色を何日も歩くのが苦痛になり、彼女のことだけを考えて歩くことにした。
ターコイズブルーの瞳や流れるようなブロンドの髪、宝石を待っているようなえくぼのこと。それから甘い香りや甲高い声。そのうち理不尽に何度も怒られたことまでも思い出して、腹いせに落ちている犬の骨を蹴ったりもして道を進んだ。

道が険しくなってきた。この辺りはまだ朽ちかけていない木々もあり、歩くのが大変だぞ、と思った。
ざくっ、ざくっ、と枝を踏み締めて坂を登る。
大きめな枝を踏んだとき、つられて野犬が飛び出してきた。

襲いかかってくる野犬に木の枝で立ち向かい、小一時間ほど格闘した末、わたしはなんとか野犬の目を潰した。
野犬は悶えて、丸々と太った腹を天につるりと開いた。
わたしの息はとても上がっていた。高揚感があった。
それに、娘の元へ向かう途中に動物と戦って勝利を収めた今のわたしは、なかなか精悍な顔つきをしているのではないか?と思って陶酔した。
少し楽になった坂道を、時々スキップを混ぜて進む。

次第に視界が開け、青々とした湖が見えてきた。
彼女とよく釣りをしていた湖だ。あの湖は干上がっていなかった。

近くには彼女が住んでいた小屋がある。
わたしは意を決してドアをノックしたが
返事はない。少し待った末に扉を開けて中に入った。

中は無人で、彼女が座っていた椅子だけがあり、椅子の上には人間のものらしき骨が置いてあった。
きっと彼女のものだろう。
私は骨を一本手に取り、湖へと戻った。

桟橋で飽きるまでずっと湖を眺めていた。
湖面は光で踊り、私の顔を刹那ごとに違う切り取り方をして描写した。ふと彼女を思わせる甘い風を感じて振り向くと、そこにはターコイズブルーの花も咲いていた。
彼女と過ごしたここには、色彩があった。
美しさは生きているし、彼女は私の中に残していた。

賢人が言っていた数々の言葉が馬鹿馬鹿しく思えてきて、急に眠気を覚えた。街に帰ったら、あの鏡を割ってやろう。そう思って、彼女の小屋で私は深い眠りについた。

爽やかな朝だ。目が覚めると私は鳥の声やあたたかな陽光に包まれていた。
賢人は椅子で眠っていた。今はまだ私の出番ではないと言いたげに、眉を寄せたまま眠っていた。
彼は悲劇にのみ出演する、舞台役者であった。

私は観客に視線をくれることなくベッドから降りて、そのまま舞台袖にむかった。
控室には老若男女様々な賢人でひしめきあっており、わたしが通るとギョッとした疑り深い目でこちらを一斉に見た。私は内心どきどきしながら、ポケットの骨を握りしめた。




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