見出し画像

自己紹介~3度目の人生の転機~

どうも!ご覧いただきありがとうございます!

先ずは僕の事を知っていただきたいと思います。

長いのでお時間がある時にお読み下さい。


バンドに明け暮れていた専門学校時代

高校卒業後、音楽の道に進みたいと思い仙台の専門学校に通い

そこで知り合った仲間とバンドを結成し、ライブハウスに入り浸り

月に4,5本のライブをこなす日々でした。

お金はありませんでしたが本当に充実していました。

2年が経ち、卒業を間近に控えたある日でした。


彼女の妊娠が発覚

当時付き合っていた彼女(現妻)から生理が来ていないと打ち明けられました。ドラッグストアで妊娠検査薬を買い、2人で確認しました。

妊娠の反応がありました。

僕と彼女は頭が真っ白になりました。

二人ともまだ20歳の学生です。

お互いにアルバイトはしていましたが、僕はバイト代のほとんどを

ライブやスタジオ代につぎ込んでいたし、彼女もアパート代や生活費を

自分で賄っていたので当然貯金なんてありませんでした。

というかお金の面よりも何よりも、自分が父親になるなんて想像もしていなかったし、その当時はバンドが頭の中全てを占領していたので、結婚や子供なんて全く興味がなかったんです。なので、家庭を持ち育てていく自信がありませんでした。

そして彼女にこんな事を言ってしまいます。






「堕ろしてくれ」










はいクズ~!当時の俺めっちゃクズ~!

タイムスリップしてケツバットしてやりたいところですが現代の技術ではそれは出来ないようです。

今では有り得ない発言ですが、当時は本気で音楽で食べていくつもりでいたし、少しづつ固定ファンが付いてきた矢先の出来事でした。

そして20歳というまだまだ未成熟な年齢だったためどうしても現実を受け入れられませんでした。ですが、彼女はこう言いました。


「私の中に命が宿ってるのに殺すなんて選択肢は絶対ない」


僕は「殺す」というワードにハッとさせられました。

中絶=殺すという発想が僕にはありませんでした。

彼女も妊娠が発覚した時はめちゃくちゃ動揺していました。

ですが、自分は母親になるんだ、何があっても絶対に産むんだという

強い意志があったように見えました。

その姿勢を見て俺はなんて自分勝手なんだろうと初めて気がつきました。

そして、彼女と結婚して子供を育てていく事を決意したんです。これが僕の人生で1度目の大きな転機です。


0からのスタート


貯金ほぼ0からのスタートだった為、まずは何よりも出産費用を貯めることを優先しました。

大好きだったバンド活動は諦めました。これは本当に辛い選択でした。

未経験で始められるということで地元のパン屋に就職しました。

入籍はしましたが、式は挙げず、出産までお互いの実家で暮らすことにしました。

3月から働き始めて9月に出産だったのですが、その半年間で70万貯まりました。手取りは12万でした。

食費や光熱費は親に頭を下げて出してもらっていたというのもあるのですが、記憶にある限り休みの日は1度しか遊びに行かなかったです。今のコロナ自粛より自粛してました笑。追い込まれるとそのくらいできちゃうんですね!


長男誕生~怒涛の出産ラッシュ

それはそれは感動でした。手が震えてめちゃくちゃ泣いたのを覚えています。

それからの育児生活を細かく書きたいところですがそれはまた別な機会にします。

2年おきに次男、長女が誕生し、いよいよ賑やかになってきたある日でした。


東日本大震災と原発事故


僕は当時も今も福島に住んでいます。もう二度と経験したくないし、津波の映像は今も見ることはできません。とはいえ津波や家屋の倒壊の被害は受けなかったのですが、問題は原発事故でした。

子供達の外での活動は制限されてしまいました。僕の住んでいる福島市は福島第一原発からは85キロ離れていますが、風向き的に非常に悪い条件がそろってしまい、ホットスポットと呼ばれる放射線量が高い場所がいくつもできてしまいました。メディアやネットでは毎日のように放射能が~、福島が~という声が飛び交っていました。僕は、なんでよりによって福島なんだろうと何処にぶつけたらいいか分からない感情で押しつぶされそうでした。そんなある日です。


4人目の妊娠



世間が原発問題でヒートアップしていた時のピークの頃を思い出してください。そんな状況の中で4人目を授かりました。そして僕は妻にこんな言葉を投げかけます。






「堕ろしてくれ」






















またしてもこの言葉を使ってしまったのです!もうゴミです、ゴミ!

今から全力で言い訳をします。

その当時僕は半分ノイローゼ気味でした。今いる子供達3人と妻ですら安全に暮らしていける保証もないのに、もう一人…

避難するべきなのか?避難先での仕事は?出産費用は?

今までは親が近くにいたから何かあれば頼りになったけど避難したらそれがない…何より妻が既に内部被ばくしていたらおなかの子は…

ホントにその時はおなかの子が健康に産まれてくれるかどうか分からないし、もし障害を持って産まれてきても育てていく自信が全くありませんでした。当時の年齢も無理矢理言い訳にするとしたら、25歳でした。

産まれてきても不幸にさせてしまうのが申し訳ないと思っていました。

だから…いっそのこと…

しかしながらやはり妻が折れることはありませんでした。一人目同様、何があっても産むという姿勢は変わりませんでした(めっちゃ男らしい)

僕は半ばパニックになり1週間ほど家出しました。

数少ない友人の一人の家に居候させてもらいました。

彼のことも紹介しだしたら多分読むのに8年ぐらいかかりますが、とにかくネタの宝庫です。映画化出来るような人生を送っています。

そんな彼が言い放った一言がこれです





「どっちに転がっても君たち一家は幸せになると思うよ」





何でしょうか…あれだけ世間がパニック状態だった時にこの言葉が出せるとは…お釈迦様でしょうか?

彼のSNSを紹介したいところですが、あいにく彼は全くSNSをやらないタイプなので、代わりに電話番号を晒しておきます。

そんな彼の言葉を受けて、僕はまた心を入れ替えることにしました。

「よし、自分が招いた結果だ。全部背負って生きていこう!」

おなかの子と出逢う事を決めました。これが2度目の転機です。



4人目~5人目のお話



それはそれはかわいい子が産まれて来てくれました。

順番を付けることはあまり好ましくないですが、一番愛おしく感じてしまいます。

あの時、違う選択をしなくて本当に良かったと思っています。

4人目の子も順調に授乳期が終わって、世間も放射能放射能言わなくなった頃です。

5人目の妊娠

ある日仕事から帰宅した瞬間、妻から突然妊娠検査薬を見せられます。

陽性反応がある検査薬…






ちゃむ「まあ、ここまで来たら4人も5人も変わんないっしょw」








なんという心の入れ替わり方でしょう。

2011年と同じ登場人物とは思えませんね?

そんなこんなで5人目を迎えることになります。



~5人目で子育ての本当の厳しさを知る~

5人目と対面した瞬間です。



妻は4000グラムの息子を5人の中で一番スルッと産み落としました。

お子さんがいる方は4000グラムがどれだけデカいか分かるかと思いますが、ホントにスピード出産でした。

初めて抱いた時のズッシリ感を今でも覚えています。

この子がなかなかの曲者だったんですね…



4人育児した経験が全く活かされなかった

同じ親から産まれた子とはいえ、同じ人間ではないわけです。

上の4人は夜泣きが3,4カ月で終わったのでそんなもんだろうと思っていたのですが、5人目は丸1年、毎日3時間おきに続きました。ご想像下さい。1年間まともに寝れない状態で仕事に行く日々を。




僕たち夫婦はもしかしたらその時で死んでいたのかもしれません(このnoteを書いているのが死後の世界かも)

自己紹介ですので同情を買うつもりもありません。事実を淡々と書きおろしているだけです。

もっと細かく言うと、3時間おきに夜泣きするから3時間おきに寝れるわけではありません。授乳している時間は起きているわけで。実質寝れるのは1時間ぐらいだったと思います。母乳とミルクの半々ぐらいで2人でなんとか頑張りました。

そんなこんなで、あっという間に時間が過ぎます






「マイホーム建てたのに今の収入でヤバくない?」



5人目がある程度育った2019年の話です。

以前から目論見があったマイホームの建設が実現しました。

しかしその頃から「今の職場ではそのうち限界が来る」という感情が芽生え始めました。



2019年の時点では転職を2回して、少し収入は上がりました。

しかし、「限界」というワードがどうも気になりました。



「サラリーマンでやっていけるの?」「ローン返していけるの?」「それって本当に自分がなりたかった姿なの?」

自問自答する中で、YouTubeを始めとした様々なプラットフォームで発信する人と出会いました。以下は、僕が認知した順番です。

・鴨頭嘉人さん

・マナブさん

・イケハヤさん

・もふもふ不動産さん

・マコなり社長

・西野亮廣さん

ザックリ言うとこの人たちです。

ここから僕の価値観が大きく変わりました。この人たちのおかげで今までの価値観がぶっ壊されました。これは本当に奇跡だと思っています。

「日本人とはこうあるべきだ」「社会人とは」「男とは」

そういう固定概念や同調圧力は捨てるべきだと知りました。僕はその時点で仕事を辞める決心はついていました。しかし辞めたから何がしたいかは決まっていませんでした。ここまでが去年の年末の話です。

~すごい人が身近にいた~

今年の1月です。僕には地元で仲のいい友人は2人ぐらいしかいないんですが、毎年恒例の新年会をしていました。そのうち1人は先程挙げた友人で、不動産会社を経営しています。もう1人は、物販を経営している友人です。

そうなんです、僕の友人は2人とも経営者だったんです。

僕は去年までの経緯を話しました。とても驚いていました。何故なら僕は2人が会社を起こして成功している事はすごいと思っていましたが、なんとなく自分とは関係ない世界だと思っていて興味を示していなかった為、仕事の話を持ち掛けることはほとんどなかったからです。後からわかった事ですが、2人ともかなりの苦労人です。

同時にとても喜んでくれました。物販をやっている方の友人は丁度僕のような人材を探していたそうです。そこからはもうあっという間でした。僕は彼の下で仕事をすることになりました。これが3度目の転機となります。

すぐに職場に辞表を出し、2月で退職しました。新しい世界に飛び込むことになります。

毎日人々が何を消費しているのかがわかるのでとても面白いです。特に最近はコロナの影響があり日ごとに変わります。

退職と同時にYouTubeチャンネルを立ち上げました。まだまだ更新頻度も低く方向性も定まっていないので模索中です。

今はというと、社長が物販のコンサルもやっているのでそこで使う動画の編集やサムネイルの作成を主に請け負っています。



というわけで自己紹介は以上になります。ここまで読んでいただいて本当にありがとうございました!

よろしければYouTubeチャンネル登録お願いします!

https://www.youtube.com/channel/UC9O0VvyHeobyoc--G27LxHQ



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?