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散らす

 血のついた、シーツ、タオル、パンツ、布団カバーを洗いながら、私はひとつのことをずっと考えていた。

 考えているうちにまた血が溢れて、洗面所の、床にしいたバスタオルに落ちた。真っ赤な鮮血が、私の二本の足の間で黒くなっている。もう何回も同じことを繰り返す。赤い部分を冷たい水に浸すと、水に放たれた私の一部がリボンになって浮いて流れる。すかさず固形石鹸を直接ごりごり塗りつける。ごりごり、ごりごり。何度も、何度も。石鹸がどんどんすり減っていく。血と混ざりあって、桃色の泡が水面に浮いている。それから、石鹸で白くなった部分を冷水の中で洗う。

 何度も、何度も洗ったのに、それでもたくさんのシミが残った。水たまりみたいになった部分も、焦ってそのまま零れた部分も、たくさんたくさん残ってしまった。

 冷たい水に手をつけながら、ふやけた指を水面越しに見ながら、私は、精一杯、精一杯考えていた。空っぽの、私の中に誰かを抱きしめて、埋めて、そのままそれが中身になればいいのにって、その考えは全くもって間違っていて、彼は抱きしめても私の中身にはならなかった。

 寒い冬の、教室から眺めた雲は、とてもとても遠くにあって、遠く遠くのあの向こうの方はと考えているうちに、寒い空気が肺に入って思わずむせ込んだ。

 空っぽの私が冷たい空気をヒューヒュー吸い込んで、ふいごのように、なにもない中身を吐き出していたあの冬。彼は前の席だった。私は毎日がモノクロの映画のようで、つまらなくて、皆が部活に向かう放課後も、ぼんやり窓を見ている女だった。どうして窓を見ているのか。それはどうもよく分からなくて、彼に初めて声をかけられたそのときも、私は同じように答えた。

 わからないよ。

 ぎゅうぎゅう胸が締め付けられて、本当は、本当は席から立てないだけだったのに、私は、わからないと、そう彼によく言った。それは恋煩いとは違う。慢性的に私の胸はぎゅうぎゅうと、よく鳴っていた。空っぽの私にはそれがよく響いて、息をするのにも震えねばならないときがあった。

 教室の端で空っぽの胸をかかえたまま、どうしようもなく座っている椅子は冷たく、そんな私にいつの間にか気づいて、放課後も彼は私の前によく座っていた。けれど、何を質問しても、私があまりにもわからないとしか言わないので、困って今度は「一緒に帰らないか」と誘うようになった。わからないと返すわけにもいかず、断る理由のないまま、いつしかそれは日課となり、いつしか私たちはお互いの手を握って道を歩くようになった。

 いつしか、いつしかそれは抱きしめる形となっていった。誰もいない、通学路から外れた夕方の林の中に私を連れ込んで、彼はよく私を抱きしめた。何も言わず、私の胸を包み込んで長い間抱きしめた。私はそのあいだ胸がぎゅうぎゅうと鳴いて、でもその抱きしめられている間だけ、私の中の空洞は暖かく膨張し、私はその苦しいような幸福に身を任せ目を閉じる。私たちふたりだけがこの林の中で、目を閉じる。木々の合間から夕焼けのあの鮮やかな光が差し込み、ゆらゆらしているのをまぶたの裏で感じながら、あの寒い冬に耐えていた。

 そう、まだ冬だった。何かの指図かのように、両親がぽっかり家を空ける日を母から告げられた。すぐさま彼にそれを話した。私の胸はこの時も、ぎゅうぎゅうとやはりよく鳴っていたが、あの高まり、膨張の果てに、この空洞がなくなるのではないかと、そのひらめきにかけてみようと思ったのだ。深く深く、抱きしめられたその後に、空洞に彼が満たされ、暖かくなれば、そうすればこの冬が終わるのだと信じこむことにした。彼は黙って、少しのあいだ考えてから、じゃあ金曜日、と言った。

 私はそれまで震えずに済んだ。その金曜日を待ち望んで、もう何年も誰も来たことがない自分の部屋を片付けた。外の景色を眺めたくて、彼を思い浮かべながら、窓を初めて丁寧に拭いた。ガラスにつく自分の息の白さに驚き、また彼の息の色を考えた。小さな部屋の、小さなベッドに、真新しい真っ白なシーツを敷き、それは、どこか自分の知らない街の知らない部屋のように思えた。

 ぎゅうぎゅうと、金曜日の放課後に、胸の音を聴きながら私は玄関を開けた。一軒家に、制服の男女が一人ずつ。私が鍵を閉めると、彼はすぐさま私を強く、強く抱きしめた。長い長い時間だった。空洞は膨張し、胸はぎゅうぎゅうと鳴り、その高まりで私は何も喋れなかった。白い部屋の中で、考える。きっと、満たされる。空っぽの私の中身が今手に入る。そう期待し天井を仰いでいたそのとき、そのときだった。鈍い痛みと共に、真っ赤なものが、私の中から溢れ出した。

 鮮血はどんどん流れ出し、またたく間に新しかったシーツは赤に染まった。彼が動揺したのを見て、何とかしようと私が立ち上がってもなお、血は滴り落ち、私の太股にいく筋もの赤い流れが生まれた。そこらにあるタオルやちり紙で抑え、生理用のナプキンを引っ張り出し、その間にも部屋は赤くなっていった。彼は不安そうに私を見つめたまま、動けず、私はそのときひどく自分を恥じて、そして彼の目を見ることを恐れた。それで、終わりだった。

 目を閉じたかった。その願いを叶えるため、私は強引に彼を帰らせた。どうしたのか、よく覚えていない。

 冷水で洗い続ける。血のついた、シーツ、タオル、パンツ、布団カバーを洗い続ける。滴り続ける鮮血がまた新たなシミを作る。精一杯、精一杯考え続ける。

 あまりにも血が溢れるので、取り替えたばかりのナプキンを再び変えようと下着を下ろすと、血の塊がそこにはあった。ぶにぶにした、臓器のような血の塊。それはまるで、教科書で見た、胎児のようで、私はそれを使用済みナプキンに包んで、ゴミ箱に捨てた。

 私は、精一杯、精一杯考えていた。私の、空っぽの中身は、空洞ではなかった。大量の鮮血が詰まった、ぎゅうぎゅうに鮮血が詰まった、私の中身。胸が真っ赤に破裂して、ぎゅうぎゅうと、幼い気持ちにあふれていた私は死んだ。私はぼんやりと、教室の窓と、空気と、あの林のことをだんだん考えた。ぼんやり、目が霞んできて、洗い続けたシミのついた布の山を、私は洗濯機に入れた。

 自分の部屋に戻り、床の血の点々をぬぐい、捨て、まだ匂いのする小さなベッドに横たわる。胸が、また、ぎゅうぎゅうと鳴る。しかし、空っぽに向かう私の胸はもう高まることはない。私の中には誰も入れない。私に入ろうとする何もかも、誰でも、赤い波に押し出されて、私の中はそれでもぎゅうぎゅうのまま、鳴っている。積み上がり、形をなそうとしていたあの風景も、彼の暖かさも、みんなみんな流れた。流れた血はシミとなり、残り、もう引き返せない。

 息が切れ、胸が震え始める。自分の部屋の、何も無い虚空を眺める。力なく置いた足の付け根がまた濡れている。1回きりの侵入を許した私の中身は、止まることなく、また戻らないシミを作った。

(2018,9,24 再掲)
#小説 #短編小説 #創作note

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