落語の世界にお邪魔した

おはようございます。
昨日のキックボクシングでボコボコにされすぎて記憶がなくなりかけたそこら辺にいる大学生です。(悔しすぎるから、週1は道場に行くことに決めた)

さて、今日は祖父が好きだった落語について考えたいと思います。(友達と遊んで家に帰ると必ず笑点をやっていた)
なぜ急に落語?と思われるかもしれませんが実は大学の研究でお笑いについて調べており、その1つとして落語を扱おうと思いました。(落語は漫才より笑いどころを掴むのが難しいからおかしみを理解するのにたまに苦労した)

共通認識で創る観客との協力
漫才でおかしみ(笑い)を生み出すためには舞台上の芸人だけでなく聴衆の協力も必要でしが、これは落語も一緒みたいです(世界は相互作用でなりたっているよね)。噺家(話し手)はあの手この手を使って聴衆と状況を共有し、共感または、予想を裏切る(はしごを外す)ことによっておかしみを生み出しています(繰り出される話について共通認識していることが重要)。そのため、聴衆もイメージすることができるという前提のもと、話の舞台が設定されます(身内ネタが身内にしか受けないことはこれで説明がつく)。

何度も笑っちゃう
長年にわたり演じられている落語は、すでにその内容(オチ)を分かっていて聴いている人が多いのですが、それでもその人達はその都度笑います(オチがわかっているからつまんないとならない)。これはなぜかと考えたときに、笑いの構造がしっかりとしているコンテンツは必然的に笑いを生み出すのでは?という仮説が浮かびました。つまり、笑いを生み出すための構造(メカニズム)が話に組み込まれてさえいれば笑いは取れる。そこで大きな笑いに昇華させるかどうかは噺家(話し手)の技量によるのだと思います。最後の詰めは噺家の話し方であったりボディーランゲージだったりするわけです。

落語は噺家が観客に協力してくださいと頼み(共通認識を創りだし観客に働きかけ)、それにお客さんが応じることで成立する共同作品であると感じました。


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