映画『ジョーカー』と人生の三幕構成。一幕では親に従い、二幕で世間に、三幕で自分に従う。
※ネタバレ含みます
物語の多くは三幕構成で作られており、三幕で作れと習うことは多い。
・一幕は「問題提起」
・二幕は「問題の複雑化」
・三幕は「問題の決着」
と明快に説明している記事がわかりやすいけど、映画・ドラマの脚本術でも三幕についてよく論じられている。例えば映画『ジョーカー』も本人の内面状態で見ると三つに分けられる。
・一幕は「問題提起」主人公は社会に適応できない
・二幕は「問題の複雑化」主人公は「偽の自分」で成功し適応しようとする
・三幕は「問題の決着」主人公は本当の自分を見つける
この三幕構成は、人生でも同じではないかという本「ミドル・パッセージ」が面白かったので紹介したい。著者は心理学ユング派の重鎮ジェイムズ・ホリスで、同じくユング派の河合隼雄氏も「中年クライシス」という中年問題を扱った本を出していてこちらもおすすめ。
これらの本は主に中年の危機、燃え尽き症候群や中年がかかりやすいうつ状態などについて分析したものだけど、なぜユング派が揃って中年問題を扱った本を出しているのか?
心理療法にくる患者に特に中年が多いことと、この中年問題について、ユングが極めてポジティブに捉えていることが影響していると思う。実際にジェイムズ・ホリスは、従来のミッドライフ・クライシスという言い方よりも「人生半ばの通り道」という意味でミドル・パッセージという言い方をしようと提唱している。
中年クライアントの多くの悩みは、「今までやってきたことや、演じてきた役割を別とすれば、一体わたしは何者なのか?そしてこれからどこへ向かうのか?」ということだ。ジョーカーの悩みのごとく、多くの者が迷う。
社会の要請に応じて自分を拡張してきた結果、本来の自分との距離がどんどん開いていって、充実に向かったはずが空虚になってくる。あれ?これで良かったんだっけ?と思う時期の多くが中年だということだ。
この本で示している人生の三幕はざっくりいうとこうだ。
・一幕は「魔術の時代」子ども時代の、親と自分、夢と現実が混ざっている時代
・二幕は「英雄の時代」青年期の、世間的な成功を求め英雄を目指す時代
・三幕は「人間の時代」中年期以降の、自分の個性を見出す時代
※老年期についても書かれているが、エピローグ的な記述になっている。
面白いことに、冒頭で示した物語の三幕構成にあてはまる。
・一幕は「問題提起」主人公は社会に適応できない
・二幕は「問題の複雑化」主人公は「偽の自分」で成功して適応しようとする
・三幕は「問題の決着」主人公は本当の自分を見つける
まずは問題提起。子どもは無邪気な段階から、徐々に社会を垣間見るようになる。親といつかは離れ、自分自身でサバイブしなければいけないと気づく。
一幕と二幕のあいだには通過儀礼、イニシエーションがあり、物語の最初の山場となる。グリム童話の「鉄のハンス」が典型だけど、この過程は次の構成で物語化されることが多い。
1. 両親からの分離
2. 死。子どもの依存性が奪われる
3. 再誕。新しい自分の芽生え
4. 伝授。部族から大人の流儀について習う
5. 試練。習ったことのテスト
6. 帰還。子どもは大人として元にいた場所に帰ってくる
山場は情報量が多くなり、時間が長くなる。この本ではギリシャの時間概念、クロノス(一定の速度で進む客観的な時間)とカイロス(伸び縮みする主観的な時間)を用いて説明しており、山場ではクロノスとしては短くてもカイロスが伸びて、主人公は多くの経験を得て成長する。
例えばドラゴンボールの天下一武闘会は、イベントとしては1日で行われるが、そのイベントを描いた漫画は延々と何週にわたって続く。クロノスは1日でも、カイロスとしては1年ということもありうる。
物語は情報量のコントロールで作るけど、極端にカイロスを増やす演出はよく使われる。いくらクロノスが長くても、カイロスが長くないと主人公は成長しない。ちなみに映画ジョーカーの構成が面白いのは、この山場を、あとで説明する二幕と三幕の間の山場に重ねることで、主人公の変化を鮮やかに見せていることだ。ジョーカーは自分を虐待していた母親を殺し、遅すぎたイニシエーションを達成する。
次の二幕は問題の複雑化。社会に適応するために、世間的な成功を追い求めるようになる。その場合本人の個性はすぐに活かしにくいので後回しになることが多く、ストレスが強くかかる。世間的に良いとされる人格を自分に投影している状態で、映画『ジョーカー』だと主人公がみんなを笑顔で幸せにしたいと思っている段階。
最後の三幕は問題の決着。自分の個性を発見し、それを社会で活かす方法を知る。ジョーカーだと悪い方向に出てしまったけど、多くは良い方向にでる。そして中年の危機とは、この二幕と三幕の移行期のことだ。
二幕で目指した世間的な成功について、主人公は疑問を持ち始める。果たしてその成功って、自分にとって本当に好きなことなんだっけ?と。しかし自分の中には、その成功を目指して思考してきた自分もいる。どっちが本当の自分なのかという、自分が分裂してしまう恐怖もこの山場では出てくる。
映画ジョーカーの妄想シーンも、その分裂を象徴している。そしてこの分裂は、他人にも投影されるのでやっかいだ。ジョーカーの妄想の中の恋人は、白馬の王子のように、世間的な成功を他人に投影した姿だ。
ミドル・パッセージではこの投影を表現したペルシアの詩人、ルーミーの詩を紹介している。
はじめてラブストーリーを聞いたその瞬間から、わたしはあなたを探し始めた。
それがどんなに無謀なことかも知らないで。
恋人たちは、結局どこかで出会うのではない。
彼らは、最初からずっと、お互いの中にいるのだ。
子ども時代は親に理想を投影し、それが敗れた青年時代では、恋人に理想を投影する。それすらも敗れた中年以降に、ようやく投影の影は晴れてくる。そこにいるのは、英雄でも白馬の王子でもなんでもない、ただの人間だ。
「魔術→英雄→人間」という三幕構造を経て、人はようやく個性を見つける。外部の誰かや価値観が救ってくれるという幻想が全て敗れた結果、それなら自分が自分を救うしかないと気づき、自分の主観で世界を見るようになる。
「僕の人生は悲劇じゃない、喜劇だ」「喜劇は主観」というジョーカーのセリフは、世界の見方が客観から主観に切り替わったことを示す。要は自分は何が好きで、何が嫌いなのかが分かったということだけど、結末はシンプルだ。
コルクの佐渡島さんがとあるインタビューで「一流のクリエイターほど、自分が何が好きかを把握している」と言っていたのは深い。言い換えれば、二流のクリエイターほど、世間が何を好きかを把握しようとして個性を失う。
ただ主観には罠がある。ジョーカーは世間を主観で見ることに気づいたけど、その結果、他人にも自分の主観を強要してしまったので堕ちてしまった。オウム真理教が人を殺すのはポアする、慈悲であって悪いことではないと思い込んだように。
自分の主観を尊重するものは、他人の主観もまた尊重しなければいけない。このルールを忘れた結果暴走する、という物語は多く、ジョーカーもその典型だ。
話をもどして、第三幕でどう生きればよいのか、ということについてこの本は「自分の喜びに従いなさい(Follow your bliss)」というジョーゼフ・キャンベルの言葉を紹介している。キャンベルは神話を心理的に分析し、スターウォーズの元ネタになったことでも有名だ。
一幕では親に従い、二幕では世間に従い、三幕では自分に従う。三幕構成にすると人生はシンプルだ。たまたま話題になっていて分かりやすいジョーカーを例題にあげているけど、多くの物語がこの構造になっている。
中年の危機は、イニシエーションほど華やかではないけど、山場の一つとして非常に苦しく、楽しいカイロスである。人生100年時代で寿命が延びたこともあり、このカイロスを描いたコンテンツは、今後増えて行くと思うので注目している。
中年の危機については身体的な面もあるけど、これについてはマニアックになるのでプレミアムメンバーのみで。
読んでくれてありがとう!