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脱北への挑戦 #2

私は北朝鮮の地方都市で生まれました。

両親は元在日朝鮮人で、
子どもの頃に「地上の楽園」という謳い文句に騙された家族と共に北朝鮮に渡りました。
1960年代の話です…。

新潟港を出た船が北朝鮮に近づいた頃、
港にはピンクや赤の花を持った人々で溢れていました。
船に乗っている帰国者らも歓迎しにきてくれた人々をみて歓喜の声を上げたようです。

しかし、港に集う人々の顔が見える距離まで船が近づいた頃には、
いつの間にか歓喜の声は聞こえなくなり、泣き出した人までいたのだととか…。
なぜなら、花を持った人々が、笑顔ではなく険しい顔をしていたからです。
顔色が悪く、痩せ細っていて、
着ていたチマチョゴリはボロボロだったから。(破れていた黒のスカートを白い布で縫っていた人もいた)
それらの光景は、「ここは『地上の楽園』ではなく『生き地獄』である」ことを物語っていたと両親は言っていました。

私の両親は、北朝鮮で中学・高校(北朝鮮は中高が一体になって6年間)を卒業し、進学した地方の大学で出会いました。

両親は2人とも在日帰国者で、お互いにとって良き理解者であったと思います。
家ではこっそり日本の演歌を聴き、
私が聞いてはいけない内容や、国の批判などは日本語で話していました。

私にも日本で暮らしていた時の話をよくしてくれました。
近所の駄菓子屋さんのおじいちゃんがクッキーをくれた思い出や母の夢が女優さんになることで子どものオーディションに応募し最終的に合格した話を聞かせてくれました。
(ちなみに北朝鮮に帰国後、悔しくて合格通知書を泣きながら燃やしたそうですT^T)
「どんぐりコロコロ」の童謡を歌ってくれたことも覚えています。

そして、私が15歳になった頃に両親は言いました。
「この国で生きている限り夢も未来もない。家族の安全を守ることすら容易ではない。ジヨンはチャンスがあったら絶対に脱北しなさい。それが命がけだとしても、意味のある人生を生きなさい。」
(ここでいう“命がけ”は「持てる力を尽くして」という意味合いの比喩表現ではなく、文字通り命を失う危険を冒すことを意味しています)

それからの私は、いつの間にか脱北を夢見るようになりました。
脱北を考えていることが知れれば、家族全員が収容場送りになるため、人知れず時間をかけて情報を集めました。

それから約10年後、両親が病気で亡くなり、ひとりぼっちになった時、脱北を決意しました。

当時を振り返ると、本当の意味で「命を懸ける」ことができた時、人は怖いものなしになるのだと感じます。

銃を持った兵士が見張りをしている凍り始めのトゥマン川(北朝鮮と中国の間を流れる川)を渡る時、中国の公安の検問所を通る時など、命が危うい場面はたくさんありました。
(中国の公安に脱北者が捕まるとほぼ100%北朝鮮に強制送還されます。強制送還後の脱北者の人生は想像にお任せします。)

そういう時は「人はどうせいつか死ぬ」と自分に言い聞かせて、やり過ごしていました。

私が元から強運の持ち主だったのか、気まぐれな運命のいたずらか、
とにかく私は無事に脱北して1年後、日本にくることができました。

“日本にたどり着いたらハッピーエンディング”ではなく、それもまた一つのスタートでしかないことに気づくのは少し先になりますが、このとき、夢も未来もない国から、自分次第で何かを掴めるかもしれない場所へ私はたどり着いたのだと思います。

あの時の“命懸け”があったからこそ、

今は毎日感謝しながら、夢や未来に向かってワクワクしながら生きています。

これが両親が言っていた「生きる意味」かもしれません。


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