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私から始まる風景〜ZINE『ゆめみるけんり』vol.5寄稿しました

路上観察をベースにした研究のアイデアについてあるとき話していたら、なぜ風景に関心を持つようになったのですかと質問されて、疑問に思った。

いつからわたしは風景を特別なものとして生きているのだろうか?

ひとつ思いつくのは、高校生の頃だ。いわゆる渋谷系といわれる音楽や単館上映の映画が好きだったわたしは、土日や学校帰り、生まれ育った千葉から東京の渋谷へ電車で1時間半かけて遊びに行っていた。わたしが高校生の頃は渋谷のセンター街を闊歩するコギャルがメディアでは大ブームで渋谷は怖いイメージだった。しかし、行きたい映画館とレコード屋は渋谷にある。
極力人に話しかけられないよう、センター街へは絶対に足を踏み入れず、カセットテープのウォークマンをポケットに入れ、雑多な情報を遮断して、音楽に沈み込み、公園通りを手ぶらで早足で歩くのが、わたしの街の歩き方の原点だ。ふわふわと数センチ浮いて、大好きな音楽と風景を一つにして自分の中に刻み込む感覚で生きていた。路地裏の喫茶店、道端の草木、ゴミだらけの公園、電車の窓外の流れる景色と夕陽。すべてが美しく儚く感じられ涙が出るメランコリーな日々だった。現実は存在していなかった。

もうひとつは自分なりの故郷の定義を見つけたことだ。故郷と言われて出身地や生まれ育った場所を言う人は多いだろう。わたしの場合出身地は千葉だが、千葉に愛着があまりない。あるとき私は「風景をありありと思い出すことができたらそこを故郷と呼んでいい」という定義をした。
この定義だと行ったことあるところ、写真やテレビでしか見たことなくても印象に残ったところ、たいがいが故郷ということになってしまう。その場所に行ったことすらなくとも、全く理由もなく懐かしさや郷愁を感じる場所、心惹かれる場所が、人それぞれあるのではないだろうか。私の場合、最初それはイギリスとアイルランドだった。

小学6年生の頃、母がイギリス英語が好きでイギリス系の英会話スクールに通っていた影響で、イギリスに親しみを覚えた。イギリス国旗がモチーフの文房具がよく売ってたのでそれを揃えてみたり、小学校の卒業アルバムの「クラスのみんなに質問!」というページで、「将来住みたい場所」という項目にイギリスと書いた。なぜ卒業アルバムのクラスのページに「将来住みたい場所」という項目があるのかというと、同じくイギリス文房具好きの親友と私が卒業アルバム委員で、イギリスと書きたいために質問を作ったからだ。他のクラスメートは困惑し、多くの子はその時住んでいた千葉や、将来、進学や就職で住むであろう現実的な選択肢としての東京、親の実家がある国内の県名を書いていた。

次に私が憧れたのは、イギリスのお隣の島国、アイルランドだった。アイルランドは北西ヨーロッパの島国で、面積は北海道と同じくらいだ。島の北側の一部は、英国の正式名称「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」の北アイルランド連合王国にあたる。南から半分以上の大部分は1949年イギリス連邦から独立したアイルランド共和国だ。
私がアイルランドの存在を知ったのは、高校1年生の時だった。母の英会話スクールには、講師の一人にアイルランド人がいた。それをきっかけにアイルランドに興味を持った母は友人と一緒に、イギリスに帰国していた講師に会いにいき、ついでにアイルランドの首都ダブリンを旅行して帰ってきた。

アイルランドの建物とカラフルな色の扉がのったお土産のカレンダー、羊たちが点在する素朴な郊外の田園風景やパブで演奏されるアイリッシュ音楽が素敵だったこと、当時のアイルランドではアジア人の旅行者が珍しかったらしく、親切にしてくれた宿やタクシーの運転手の話。母から伝え聞くダブリンの様子にすっかり魅了された。

高校2年の時、地理の宿題で各自が先生のあげる課題リストから一つを選んで夏休み中にレポートにまとめ、後期はそのプレゼンを順番に授業で行うことになった。「1960年代アフリカの国境分割」「アメリカ自動車産業の発展と衰退」「ドイツロマンチック街道の成立背景」といった世界各地の歴史や地理にまつわる課題から、自分の気になるものに名前を書いてエントリーする。そのリストの中に、「アイルランドの歴史と独立問題」があった。母が旅行して身近に感じ、憧れていた「アイルランド」の文字に心躍り、その課題を選んだ。

私の中で、アイルランドへの憧れはますます深まり、20歳の頃、春休みの2週間ダブリンへ滞在した。母がアイルランドに行くときに使った旅行会社で販売されていたホームステイと語学学校がセットになった短期留学プランを使った。海外旅行すら行ったことのない、英語も一言も喋れない私が、「行くと決めたら行く」と決めてしまい、心配した母が1ヶ月前の2月に4日間の家族でのシンガポール旅行をわざわざ組んだ。それでも、アイルランドが初めての一人旅で、初めてのホームステイで、初めて2週間も家族から離れること。ほぼわからない言葉。恋い焦がれていたのに、コミュニケーションができず、思うようにいかないこともたくさんあって、寂しい気持ちを経験した。

ある日、ホームステイ先に向かうバスから降りた帰り道、当時もわたし支えとなっていたウォークマンで音楽を聞きながら、自分の靴音が夕刻の藍色の空に溶けていった。人生において、「誰かの少しの親切と、お気に入りの音楽があればどこでだって生きていける」と知った。その気持ちも含めて1日1日の風景が全て心に焼きついて2週間すべてが愛おしい。あの時ダブリンを歩いた記憶と藍色の空の風景は、紛れもなく私の心の故郷だ。

そこから海外旅行に何度か行くようになったが、次に故郷といえる場所は、ロサンゼルスだ。留学で1年住んだ。アイルランドをはじめヨーロッパ志向の強かった私だったが、大学院の学会でアメリカのニュージャージー州に行き、帰りに立ち寄ったニューヨークがすっかり好きになってしまった。それを機に東海岸の留学を検討する中でご縁が繋がったのが、真逆の、西海岸のロサンゼルスだった。1年間住むために、行ったことのない西海岸の明るい空港に降り立ってしまった。

硬派で重厚なヨーロッパ好きで、悲観的でジメジメした性格が自分だと長らく信じていたが、青い空と乾燥した大地の大らかなロサンゼルスで過ごすと、楽観的でのびのびした私の元来の性格が湧き上がってきた。私が住んだエリアは一軒家の住宅地で高いビルがなく、遠くに山が見える。今も唐突に、カラフルな壁と青い空のコントラストの効いたメキシカンレストランの前にあるバス停の景色が心を流れていく。あの場所に帰りたくなる。

それでも一人闘うことも多かったロサンゼルスの留学期間中、里心がついたわたしがいつも思い浮かべた場所は、生まれ育ったまちのバス停だった。もはやわたしの故郷の風景は全てバス停に集約されるのではないか。アイルランドでもロサンゼルスでもいつもバスを待っていた。バスはたいがい時間通りにこない。路線を間違えると知らない街ではどこに辿り着いてしまうかわからない。バス停でたった一人で待つという行為は、いつも孤独で心許なかった若かりしころの自分の心象風景なのだと思う。

ところで、小学校の卒業アルバムでの将来住みたい場所の項目に、多くの子がその時住んでいる場所しか書けなかったように、子どものうちは外の世界を想像できる範囲はとても小さい。私が最初イギリスやアイルランドに目を向けたのだって、母というフィルターを通した偏った情報だ。ロサンゼルスに1年留学することになったのも、ご縁や偶然が重なった結果だ。だが、私は他愛もない憧れに突き動かされて本当にアイルランドの地に足を踏み入れてしまったし、留学をしたい一心で、雲に唾吐く勢いで全くどんな場所か知らなかったロサンゼルスに住み始め、日本にいるよりも自分らしくいられた。
今は京都にすみ、京都の山々を眺めている日々だ。なんでここに住んでいるか、明白な理由はない。ただ山の見える毎日というのが思いの外、自分を支えている。

人生はいい加減だ。いい加減だけど、忘れ得ない景色が私の内側に蓄積していく。それが私を内側から動かす。滞在した長さじゃなくて、それぞれで過ごした時間や景色がぐるぐると廻り、心に深く刻まれる。生まれ育ったまち、渋谷、アイルランド、ロサンゼルス、東京の下町、京都、そして今まで旅したところ。場所や時を超えて全ての景色がわたしを作っている。

世界に不満ばかりで、ずっと外へ出ることばかり考えていたが、本当は、どこにもいかないでもいいことをずっと前から知っていた。

道端の石ころを眺めるだけで人生は豊かで十分。小さな路上の変化や季節に移ろう景色がある。それがいまの私から始まる風景。

こんなことを考えながら『ゆめみるけんり』vol.5の特集:「わたしから始める」に、『風景を刻む』と題した詩を書いています。

どこかで手に取ってご覧ください。