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記憶の賞味期限

7/13(火)

用事があって、久しぶりに四ツ谷にきた。

四ツ谷は私が大学を過ごした街なので、愛着がある。

用事がある場所が四ツ谷四丁目だったので、帰りに四谷駅まで歩いた。

大学の時は四谷三丁目の交差点のところに住んでいたので、昔の生活圏ががらりと変わっているのは少し寂しい気分になる。

つくづく、街は生き物だなと思う。

時代とともに、建物も店も人々も姿を変えていく。

雰囲気すら変わってしまうこともあるだろう。

どの時が「その街らしい」ということもなく、同じ場所にありながらひとつとして同じ瞬間はない。

住んでいた頃の私の目から見た四谷三丁目と、今こうして歩く四谷三丁目はまったく違う。

あの時行った店や、新しくできた店を横目に歩きながら、昔のことを思い出そうとした。



ところが、あまりにも思い出せないのだ。



昔から、過去の記憶がいつも曖昧な人間である。

小中高の記憶はほぼなく、今思い出そうとしても大学の時の記憶もうっすらとしかない。

今が色濃い経験をしていると、脳の海馬のキャパが追いつかないから昔の記憶を消すんだよと前に誰かに言われたことがある。

記憶が、私の頭の中から抜け落ちていくタイミングはどこなんだろう。

それはある時にすぱりと消えるのか。それともじわじわとなくなっていくのか。

まるで賞味期限があるかのように、それはあっさりといなくなってしまうのだ。


冒頭で愛着がある街と言ったが、

歩いていてもだんだん、知らない街というか、どこかもう、よそよそしさすら感じていた。

私は昔に誰となにをやったとかいう記憶はすぐ忘れてしまうのだが、その時抱いた感情に対する記憶はとてもある。

大学生の時、常にどこか焦燥感があった。

もともと望んで入った大学でなかったのもあるが(それでも母校は大好きです)

常に自分は今ここでこう過ごしていていいのだろうか。もっとやるべきことがあるのではないのか。あうべき人がいるのではないか。行く場所があるのではないか。そんなことばかり考えていた。

楽しいといえば楽しい毎日だったが、満足することはなかった。

色々と手を出してみたし、様々な人と過ごしていたけれど、ここが自分の居場所だ!やるべきことはこれだ!と思うことはついになかった。



それもあり、四ツ谷の私の記憶は、いつも曇り空だ。

二十歳前後に抱えていた焦燥感がなにであったかはまだ自分の中では解明できていないが、

きゅっ、と胸の締め付けられる想いがした。


余談ですが仕事の撮影や編集の時にケータリングでよく出てくるカレーのオーベルジーヌが昔毎日歩いていた道沿いの2階にあって、びっくりした!こんなところにあったんか!と。まあいつもケータリングで注文するのは三田の方だと思いますが…

多分、あーカレー屋だなーと昔も思ったと思うけど、そもそも欧風カレー苦手なので行かなかったんだと思います。笑

大学生の時に行くことのなかった荒木町では、飲み歩いてみたいな。


こうして今日も、生きたのだ。


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