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10.まとめ

  1.  2022年の日本国内の公共劇場の現状
    コロナウイルスは猛威を振るい感染拡大の勢いが収まらない。社会の構造変化を余儀なくされる場面を、何度も目にしてきた。同時に遠い国での戦争は、ネットによる過度な情報が先行し、実態がないまま漠とした不安を感じるが、経済状況、食糧事情の悪化が人々の生活を直撃している。医療崩壊、安全な日常の破壊、それに伴う平和の消失とパニックは悲惨であり、市民生活の危機を感じることがある。リモートワークや、Webを駆使した様々な試みが急速に社会に浸透する一方で、失業者の増加や、SNSで拡散される玉石混合の情報の嵐に巻き込まれてしまい、健全な社会生活が脅かされていると感じる人々が増えている。
     ウイルスという「絶対悪」の存在を自身の中に保つことなど、これまで想像することもなかった事態を前に、先の見込みが立たない中でなるべく一人で過ごすことで生じるストレスを、どう処理していいのかわからない。目が届きやすい所・・・政治家や起業家、あるいはタレントなどがSNSなどでスケープゴートにされることがあり、ひどい場合には失職や自傷する人が出てくる。
     そのことに危機感を抱いて本質や不正を正すべく、立ち上がる人々がいる一方で、情報に踊らされた挙句、疲弊し安易にストレスのはけ口を求める人、危機に無関心な人々が、最近目立つようになった。物事のプロセスや背景にあるストーリーがはく奪され、数字やキャッチコピーが独り歩きし「状況は悪く、これからさらに悪化する」というメッセージがSNSで大量に出回る。
     国内の芸術文化の界隈では、数多くのオンラインのやり取りが行われている。オンラインの行為自体が目的化しているように感じるのは私だけだろうか。
     2020年の春ごろに「劇場の閉鎖は「演劇の死」」というステートメントが某劇場の芸術監督からなされた際、大方好意的に受け止められたが、一部で「演劇だけを特別視している」などの意見があり「不要不急」、「好きなことをやっている人間に税金を使うことはない」という心ない発言がSNS以外でも散見された。演劇の評価の低さと、劇場が果たしている社会的な役割をあらためて考えていくことになった。
     1990年ごろから、創造性に特化した公共施設が次々と誕生し、これまでの公会堂、多目的会館が想定である「プル型」の施設が、新しい芸術の表現をトレース、クリエイトする形に変わってきた。その歩みは、浪費された税金の額を考えると十分な成果が(例えば海外的にスタンダードと言える作品を上演できたか、後世に残るトレンドを生み出したか)であったかは、今後の検証と事後評価を鑑みる必要がある。

  2. コモンズの新しいかたち
     コモンズの手法を取り入れた文化政策にいま再び光があたりつつある。
     コモンズの考え方による地域を自助共助の力で運営していくという考え方はともすると、現実から目を逸らした理想主義的なものといわれてしまうかもしれない。「コモンズの悲劇」「囚人のジレンマ」「集合行為」のゲーム理論を参照にするでもなくフリーライダー(ただのり)は存在するだろう。であるならば目指すべき目標をイメージし、そこに向けたビジョンにつながる考え方をしていくしかない。
     2020年から世界中を席巻しているコロナウイルスの感染拡大は、既存の経済を揺るがすのみならず、人類が長年築いてきた「システム」が限界を向かいつつあることを明らかにした。産業革命以降、人類は技術を発展させるとともに、経済的成長を追求したグローバルな経済活動をすすめてきたが近年はその成長も鈍化し、他方では疫病の感染拡大や環境問題、食糧危機など多くの社会問題が今まさに深刻化している。
     19世紀にイギリスで起きた第一次産業革命では「印刷技術」と「電気技術」によってマスコミュニケーションが加速し、「石炭」という当時発見された新たなエネルギーが蒸気エンジンへとつながり大型の貨物輸送が広まった。20世紀アメリカでは第二次産業革命が起き、電話やラジオ、テレビが発明され、人々が時間と場所を問わず繋がれるようになり、「石油」によって自動車から、船舶、航空機といった交通、移動手段が発達した。しかし今やその成長も鈍化している。
     既にはじまっている第三次産業革命はインターネット革命と同義で、単に情報のみならず、電気エネルギーがインターネットにつながろうとしている。ネットにつながることでloTやAIを駆使する製造業の革新こそが最新の革命定義である「第四次産業革命」としていまこれからはじまろうとしている。
     太陽光や風力によって生まれた電気エネルギーは、デジタル共有化され、データやニュースを共有するといった電気によるコミュニケーションが生まれようとしている。さらには移動手段となる車両もすべてクリーンエネルギーによって動くようになり、自動運転へと切り替わることでモビリティ・インターネット構築もまたはじまろうとしている。通信、電力、モビリティの3つのネットを媒介としたコミュニケーションが、巨大なひとつのインフラを形成しようとしている。
     3つのネットコミュニティをさらに加速させるのが、前述のloT技術だ。自然環境から農作物、製造現場、住環境、家具、家電に至るまであらゆる場所に設置されたセンサーがデータを取得し、3つの大きなクラウドサーバーへと接続される。第四次産業革命とは国境を越えて地球全体をつなぐ大きなインフラをつくることでもある。
    3.グリーン・ニューディールの考えかた
     クラウドサーバーを利用したloTとAIで、第四次産業革命はデジタル化によって固定費や限界費用がおさえられるので、あらゆる人・モノがアクセス可能なコスモポリタンな情報環境を生み出すことができる。
     21世紀の経済・社会はコモンズのルールによって動いていく。いまや世界中のあらゆる人々がSNSを通じて情報を発信し、音楽、動画も無料で共有されている。特にオンラインの教育動画が無料で公開されることの意味は大きい。貧富の差を越えて、広く教育の機会が提供されるのは、有史以来人類の夢でもある。同様にレンタカーの一形態としての、クレジットカードとWEBを利用してのカーシェアリングの利便性は大きく、特に都市部での普及率は高い。シェアリングの方法論は今後さらなる発展が望まれている。それらクリエイティブコモンズによって成り立つある種の「共有型経済社会」は、一見すると先端的にも映るが、必ずしも目新しいものではない。日本古来の「いりあい」の考え方から派生した農業協同組合、自治会は、現在国内では形骸化しデメリットのみが取りざたされることが多くなったが、出発点は日本独自のローカルルールであり、きわめてコモンズである。
     現在国内のほとんどの企業がloTとAIに高い関心を持っており、ネットを媒介としたデバイスへと移行しており、そのデジタル分野はコロナ禍をきっかけにコミュニケーションツールを筆頭に著しく進行している。もっとも旧来の非デジタルな環境というのも並列しているので、一見すると変化は見えずらい。前提としてコロナ禍による業績の不振と、さきの見通しが立たず苦しい状況が続いている。
     ポイントは、そうした社会システムの移行、変換は、思う以上に素速いスピードで切り替えなければならない、という点にある。気候変動による自然環境のダメージ(温暖化や、震災)が長引けば生態系は著しく破壊されて、また新たな疫病、感染症の拡大につながる恐れがある。であるからこそ旧来のシステムを引き継がず、災害や疫病に強い社会にしなければならないのだ。
     現在ヨーロッパですすむ「グリーンニューディール 」の考え方は、二酸化炭素排出ゼロを目指しながら、新たなビジネスモデルを通じた経済価値の創出を目指すものである。国籍や宗教、地域社会の違いを越えて、「人類」という一つの共同体が、自然を大切に考えたコミュニティの中で生きていくことへの決意表明ともいえる。「実現すべき未来像」と「解決すべき課題」を明確にしつつも現在の感染症の流行や気候変動を経ながら学んだこと、他者や自然、世界との関係性を考える上で従来までの「国家による支配」例えば肥沃な土地を獲得し、他のコミュニティを屈服させるといった「強欲」「支配欲」とは違う共助の関係性で、生まれ出るコモンズの考えによって成り立つ新しい仕組みの社会と、コモンズ成立までのプロセスを下支えする公共におけるアートの役割を考えていくことが必要なのではないかと推察する。管理団体の構成員のみに便益を共有するのではないか?という意見もあり、その観点からは平等をうたう「公共」とのそぐわなさがあるのかもしれない。 
     コロナ禍で状況に応じて難しい舵取りを迫られる昨今、コンサート、公演をおこなうことで感染拡大に結びつくと批判にさらされることが多く、外部のみならず内部からもそのような批判にさらされるとしたら、アーティストへの責任、来場者、非来場者への責任説明、行政・文化関係者の意見。。。細かなガイドラインを関係者は早急に作成すべきである。「何のための公共施設なのか」あらためて原点に立ち戻りたい。
    4.大学との連携の可能性
     公的施設のニーズに見合う芸術を専門に調査研究している大学は首都圏に偏りがある。昨今は人口が少ない地域に新たな大学を設置することには困難が伴う。まして少子化の中で新たな教育機関を、特に私学が作ることのハードルは高い。
     アフターコロナの大学運営がどう進展していくのか興味は尽きないが、コロナ禍でのキャンパスの閉鎖、遠隔授業は、教育機関としての存在をあらためて考えさせられることとなった。現場の学生と教師のジレンマは計り知れない。 にもかかわらず「状況を俯瞰し、分析し、知見を獲得しようとする」場を維持する努力には頭が下がる。   
     少子化や、経営についてのハードルは高いが、地域にこそ、公的施設と連携して演劇やダンスなど舞台芸術を専門的に学習することができる、新たな芸術系の大学を設立することの意味は大きい。舞台芸術の教育機関と、公的施設の連携が共有資源としてのコモンズの結びつき・・・その結びつきが、将来的に多様な課題に向き合い、問題解決の糸口を探ることのできる人材を輩出していくことにつながる。
     芸術系大学同士の連携と、公的施設におけるアーティストの雇用を考えていくことが、地域課題へ向き合うところのミッションの実践につながり、アーティストの成長が「共有資源」の価値を高めることになる。
    地域社会におけるアーティストが、持ち前のアートの力で地域に貢献する。その芸術的な価値への対価としての収入で生活する、というスタイルが一般的になるためには、何が必要か?
     コロナ禍の影響で、従来のようにスキンシップや、他者とのコミュニケーションの機会が残念ながら失われている。もっともそのようなコミュニケーションはコロナ前から徐々に減少しており、コロナ禍が契機となったともいえる。同時にWebによるオンラインでのコミュニケーションは世代間での反応の違いはあるかもしれないが、従来のような対面型、身体を媒介としたコミュニケーションとは明らかに別の次元であることが顕在化している。コミュニケーションは人の自然な発露なので、定められたルールは存在しない。一方で現代に生きる我々が、ストレスを感じない方法が、社会では求められているように思う。

5.ミッションの再定義
 特定のジャンル、例えばオペラハウスや、歌舞伎のみ上演できるような文化施設が、ということではないのだが、実際のところ国内に建設される次世代の劇場は「オペラ・バレエ専用」「歌舞伎に対応」「能楽堂」というところが多い。それについては後述するが、40日以上演劇ダンスの稽古できるための稽古場、場合によっては週末ワークショップなどもできるような機材の搬出入が容易である部屋があり、必要な舞台備品・・・何も高価なものを所有することはない・・・が揃った上演のためのスペースがある文化施設がなぜ一般的ではないのかが疑問である。SPAC、Noismだけではない、地域からも魅力的な舞台作品の創造、舞台芸術のフェスティバルが多数おこなわれている現在は、上演の場所を備えたスペースを準備していくことが求められている。
 劇場の機能を利用しての交流と連携をうたうのは、芸術作品を「鑑賞する」というよりも「上演する」ことを前提に行われるべきではないだろうか。であるならば「建設するためのプロセス」にもう一手間加えられれば、つまりオーソドックスな舞台作品を創造、上演しつつ、ワークショップ、シンポジウム機能がある文化施設であるといいのかと思う。それはもはや連携という、うすい、冷たい関係性ではなく、他者を思いやり、困難を引き受け、成果をともに喜ぶ「連帯」の形で繋がっていくことではないだろうか? 便益と、利害を越えて地域の文化の発展のために結びつくことこそが社会で求められている。
 地域の劇場は図書館機能が付属される交流施設の影響だけではないが、大型化の傾向にある。そこで上演を想定するのが、地域のバレエ協会と連携した、グランドバレエであり、地域のオペラ団体と協働した大掛かりなオペラである。しかしながら西洋から委嘱され、オリジナルな作品が21世紀に入ってから制作されるのが稀な(実のところ、現代劇の演出家やコンテンポラリーダンスの振付家、映像作家などの登用で話題になる)バレエ・オペラ作品を上演することが地域の文化の発展に寄与するのだろうか?8章で述べたが、演劇、ダンスの新しい表現、今の日本社会を映し出す要素を持った作品は、100〜150席の平土間型フリースペースで作られることが多い。そうした作品を地域から発信し、国内のみならず、日本の文化の紹介と国際的な評価に繋げることはできないだろうか?映画「ドライブ・マイ・カー」のように。
  何もない場所で、見る人がいれば演劇は成り立つ。見る人が雨をしのげて、あるいは声をキャッチできるように周囲の雑音をカットし。。。というところからはじまったはずの劇場は、時代の変化、要請を受けて「ホール」の存在からも「集会場」の形からも成り立ちが変わってきたように感じる。しかしながら今考えるべきは華美な劇場を建設することや、連携協定を締結しようとすることではなく、制度設計、文化の振興のための明確なビジョンを作ることや、ものづくりの環境を整えていく方だ。文化は「人間存在を支える基礎」ではあるが、文化を明日のパンと並ぶ価値の軸としてしまうことからの議論は、あまり有意義とは言えない。文化の持つ経済的な価値というのは、ごく一面的な価値でしかない。そのことのみを全面的に押し出していくようなことは、文化の価値の低下と衰退につながる。
 劇場圏という考え方がある。「劇場圏」とは、劇場を中心に、その周囲に位置する行政や地域社会の諸団体、芸術マーケットのアクター(関係諸要素)が構成する一種の文化的な磁場。劇場の公演活動を介して、その周囲に展開するさまざまな機関や団体、個人は、相互に影響を与えあい、それはまた劇場の内部の活動にも作用していると考えられている。
 施設のミッションに従って行動する、そのためのミッションが社会状況の変化に伴いそぐわなくなってきている。今はまだそう目立ったわけではない。大体においてミッションも時代の枢軸に影響を受けて作られている。未来の時代の目的までを体現できていると言えない部分もある。もっともミッションというのは時代に左右されないある不変的なものである、と言えるのかもしれないが。
 今一度初心にもどり、ミッションの再定義を行うことも必要である。同様に年度毎に更新する事業もミッションに即した形に再調整を促すことも必要である。
 


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