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3. 演劇に出会う。


 

1.演劇の出会い1
スポーツ少年だった私にとって「演劇」に対する関心はほとんどなかった。生活の中でも特段演劇に結びつく出来事はなかった。街の雰囲気も、少し時代が遡っていれば労働運動や「プロレタリア演劇」や何かとの接点はあったかも知れないが。。。全くなかった。学校に演劇部は存在して、一度発表会を観に行った記憶がある。全く面白みのない代物ですぐに忘れてしまった。
 そんな中で今となっては何故観劇することとなったのかわからないが、ピーター・ブルック演出「カルメン」を観てからそれまで持っていた価値観が180°ひっくり返された。
 ベンチのような客席が馬蹄型に並べられていて、やがて暗転後、微かな明かりの中ほんものの砂ホコリの中から、切羽詰まった表情をした女優が走ってくる。舞台というか闘牛場のような場所で、過剰過ぎる身体表現をする俳優に呆気にとられた。
 砂の中で、格闘をする男たちの脇で生演奏をするバイオリニスト。。。なんて自由で面白いのだ!と思った。その演出家が何者なのか、全く知識はなかった。後になって天才演出家で、「マハラーバタ」をはじめ演劇史に残る傑作を作り続けた人だということがわかった。
 そんなわけで演劇の魅力に取り憑かれたこともあって、できればもっと知識も得たいし、面白い舞台に出会いたいという気持ちが日毎に強くなってきた。ただ実際には漠然と考えているだけでどうしたらいいのかまるでわからない。今と違い、SNSもブログも、ましてインターネットすらない頃のことだし、スポーツ少年が「演劇を。。。」というのは言い出しかねる状況だった。
高校生だったので進路を決めなければならない。「進路相談」やそれに類するところでは、正直哲学や心理学などに興味があったのでそのことを話していた。ただの滑り止めに。。。というロジックで日本大学藝術学部の演劇学科を受験した。他の大学が科目試験のみだったが日芸はなぜか面接が2回、3回あり、少し変わっているとその時思った。結果的に心理学や哲学の大学にも無事試験が合格した。さてどうするか、どこに行けばいいのか戸惑った。
バブル経済前の当時の社会状況は「一億総中流」が合言葉で国内経済は好調、80年代の高度資本主義社会では、保守的な雰囲気は今よりも強かった。セーフティネットは機能し、年金制度を初め社会保障制度も順調だった反面、少数意見は社会において認知共有することは少なかったように思う。N P O団体などまだない中でそのような蓄積した社会構造への反発というのが最悪の結果を生んだのが、地下鉄内サリングループの無差別テロだったと思う。演劇でも「アングラ」と括られる表現の中には、社会への反発、反体制という側面をもっており、ストーリー性を放棄した、裸体や、暴力衝動を喚起させる表現、あるいは反抗的なキーワードを連呼し、モラルを攻撃するものが多かったように思う。そのような表現は形を変えて継承されたものもあれば、大部分は時代の波にさらわれ、わずかな写真と説明文のみ残された状態で忘却されているようだ。
 2. 演劇の出会い2
  少し脱線したが、現実の社会の閉塞状況の中で何が必要なのかを、あらためて検討してみて、社会構造へなし崩し的に取り込まれてしまうことの違和感を、保ちながら就職以外の道も模索したいという気持ちを捨てることができなかった。「すぐれた演劇作品を作る」という自信はなかったが、声なき声を代弁したい思いはあった。そんなわけで日藝に入学しようと思った。単純に面白そうではあったので。
 期せずして「小劇場ブーム」と重なった。第三世代を代表する劇団、夢の遊眠社、第三舞台、第三エロチカの舞台はどこも超満員だったが、大抵は学生のつてで(何かしらの関係者がいた)タイミングよく観にいくことができた。「第三世代」の動きはそれまでの唐十郎や寺山修司を象徴する暗くて怖いアングラのイメージを完全に脱皮しているとともに、つかこうへいや井上ひさしの劇作の持つ日本歌謡や日本の芸能の持つ「日本の大衆性」が希薄の「時代のトレンド」を感じさせるわかりやすさがあった。
 小劇場がトレンドと拮坑する流れは、その後も何度かあるが、バブル期のジェットコースターに乗っかった勢い(遊眠社)というのは、今から思うとあの時代ならではの特徴だったように思う。
 まだ学術的にもアートマネージメントというワードは出来ていない頃、日藝ではキャスト育成は無論、スタッフワークについても実践的に育成するシステムが存在していた。まだ都内で演劇大学があまりない時代で、そうした育成システムを経て、テレビ局に就職するものもいたし、俳優養成所を飛び越えて老舗の劇団に入団するものもいた。
 だが学内では小劇場の世界で活躍するものがオーソドックスな選択と扱われており、実際そうした活動を経て、現在もテレビ映画などで活躍するものも少なくないし結局のところ、実力と名声(収入)を兼ね備えた俳優あるいはスタッフを育成し得たあの頃の大学のカリキュラムは、質が高かったと思う。
 入学し、初めて自覚的に観た「カルメンの悲劇」の演出家ピーター・ブルックの話題に触れることができた。名著「何もない空間」では「観る」ひとと、「観られる」ひとが存在するところに演劇が成立するとある。すなわち舞台照明や装置、衣装のみならず、劇場ホールというものがなくても演劇は成立する、演者と観客さえいれば、そして何を表現するか計算できる演出家がいれば。ということを述べている。何が劇的な体験を生むのか、ということを考えることの最初にピーター・ブルックに出会えたことは大きい。
コロナ禍の中で動画による配信で様々な試みがなされているところだが、観る・観られることが、いかに特別な体験を海出させるのか、単なる映像記録の配信ではなくて、ということを課題に、私はピーター・ブルックの言葉に向き合っている。

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