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『怪物』 観てきた 映画感想文

今日観てきました。
30年前の野島伸司の『人間失格』を思い出しましたね。あっちはドラマで10話くらいあるので、もっとドロドロとした描写が多かったが。
人間失格では、「豚の脳」が「頭の中の虫」だったような。

この作品は誰が犯人かという粗探しではなく、社会、街、学校、組織、家庭等々、人々の集合において必ず生じるズレ、異なる主観といったものが交錯しては行き場を失い、物凄い負のエネルギーを纏ってそれが個人個人に大きな怪物となって覆い被さっている。
そんな世界観を見事に描いていて、いっそこんな世界は壊れてしまえという破壊願望の実現と、長い人生におけるほんの一瞬であろう少年時代の美しい表情を見事に捉えたなという印象だ。
このあたり是枝監督の映画を撮る上でのテーマとして確固たるものがあるんでしょうね。

では果たして我々大人ってのは、手放したノスタルジーをどうしても子供に投影することでしか癒せないのだろうか。
普遍的な愛?そもそも安藤サクラが演じた母親も彼から見れば小さな怪物かもしれない。
「怪物だーれだ?」ってヨリを探す湊は、自分を探す母親に出くわして恐怖に慄いていたシーンがとても印象的で、子は親の所有物ではない。
けれどもサクラの母としての詮索や干渉も、親子ではあるのだが最も近い人間同士の自然な触れ合いである訳で。
こういった空回りしてしまうエネルギーってどうやって解消すべきなのか、未だに人間社会は答えを見出せていない気がする。
ラッパ吹く?この作品の肝になるシーンではあるが、そんなことで解消できないことは百も承知で、ただそれもひっくるめて生きるってことを小学生に突き付けるのは残酷な怪物のようでとても愛に溢れた描写でもある。
実は怪物の正体は愛という概念そのものなのか、とかとか色々考えさせられる。

そもそも小学生で自分の性自認について結論を出すのは早過ぎると思うのだが、女子も男子もある程度悩む年頃なのかなと自分の記憶とも照らして考えてみる。
服装やトイレの利用にまで苦痛を感じる程の違和感を生じてるのであれば別だが、具体的にセックスやオナニーについて、その対象や行動に結びつくセクシャリティについてどれ?って明確に自覚したいと思うものだろうか?
本当に「ませている」のだろうか?
だとしたら自分の脳が豚なのか、馬なのか、猿かどうかなんて、そっとしまっておけばいいだけの分別を持ち合わせていても良いと思うのだが・・エンタメとしてそこそこ愉しんでしまう自分を省みると、やはり大人の身勝手な投影だなとも思えてしまう。
上記はややうがった見方(作中にも先生と彼女のセリフで出てくる笑)かもしれないが、要するに心が通じ合うもの同士が離れ離れになることを寂しく思う「いなくなるなんて嫌だよ!」ってとこ、私的にはクライマックスのシーンだったと思うが、これって相手が猿であろうと犬であろうと同じ事でそこに無理やり性的な解釈要る?ってのが、ある種の「仕掛け」というか「スパイス」というか、そうでもしないと成熟し過ぎた現代の興行って成り立たないのかなとも。
無理やりLGBT法案通してもね、今も昔もそんなに変わらないよ。

中盤までサスペンスのようで、結末を知るまでは右往左往に翻弄される感じで、細かな伏線や役者のセリフが完璧に入ってこないので、聞き流してしまった部分もあり、もう1回観に行くかな・・
さっきも書いたがこれ観てLGBTQに対する理解が深まったとか抜かす奴はただのお馬鹿さんとしか言いようがない。
冒頭にもある通り、二人の少年のかけがえのない一瞬を見事に捉えた。これにつきますね。


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