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本当は怖いマッチングアプリ

 いつの時代だって、恋愛につながるような「出会い」というのは多少なりとも面倒くさい。
最近はそれすら通り越して煩わしい気さえする。言い過ぎだろうか。
とにかく、ややこしいモノであることは間違いがない。

 時代が変わりゆく中で、出会いの形は変わる。それは流行のような文化的要因であったり、技術発展が要因であったり、様々である。

 最近では合コンなんてものは多少廃れて、「マッチングアプリ」というものが流行っている。スマートフォン上で好みの相手を探し出し、メッセージのやり取りをしてから、気が合えば、実際に会う。その後、お付き合いに発展するかどうかは当人次第というわけだ。

 実際私は何度か利用したことがあるし、実際にデートもした。付き合うまでには発展しなかったが、全く相手にされなかったわけではない。しかし、続けるほどに違和感が付きまとってきた。
 この違和感について少しまとめておきたい。先に言っておくが、これは結局相手が見つからなかった腹いせ半分に書いているわけではない。冷静かつ客観的な分析によって作られた文章に、多少の妬みと僻みが入っているだけである。

 それにしたって、私はマッチングアプリ自体に対しては否定的な意見を持っていない。むしろ、今の社会にはぴったりのツールではないかと思う。

 一昔前のように、多くの人々が同じ流行に乗っかるわけではない。趣味や嗜好はどんどん細分化をしている。
 そんな時代だから、職場や学校のような狭い空間で、趣味が合う人や、共通点を持った人に出会う機会は少ない。だから、インターネットという広いデジタル空間を使って「お相手」を見つける方がコストや時間もかからず、便利である。

    ただ、その利便性とは裏腹に「違和感」を感じる部分もある。
そのことをまとめるため、まずはマッチングアプリがどんなものか、ざっくりとお話ししたい。

 マッチングアプリを起動すると、お相手候補の写真がずらっと表示される。その中から、自分の好みの相手を探し出し、私はあなたに興味がありますという意思表示を「いいね」という形で相手に送る。相手がそれに応えて、「いいね」を返してくれればメッセージのやりとりが行えるようになる。まずは好みの相手を探し出すところが第一歩だ。

 相手を探し出す時は、様々な検索を行うことができる。年齢、身長、体型などからはじまり、居住地や勤務地、学歴、年収、趣味や性格、結婚に対する意思や、果ては子どもが欲しいかまで無数に条件は設定できる。

 それらの条件と、写真、書かれたプロフィールを見ながら相手を探す。東京や大阪などの都市部ではかなり細かく検索条件を設定しても1000人近く該当者が見つかる。こうなってくると選考基準が自分でもわからなくなってくる。そもそも様々な条件を設定したのは良いものの、相手にそんなに条件を求められるほど自分が価値のある人間か疑わしくなってくる。

「いいね」を送るか送らないかを決定する重要な要素としては「写真」は大切である。別にお綺麗な人がいい、とかそういうことを言っているのではない。プロフィールの文章だけでは伝わらない、その人の「雰囲気」を掴む上で大切なのだ。


 「人間は顔じゃない、もっと性格とか、そういう部分が大切だと思うよ」

と酒を飲みながら後輩に講釈を垂れていた自分に全力のアッパーカットを喰らわせてやりたい。やはり人間、何も見えない相手に興味を持てることは少ない。
 しかしそうやって写真を見ながらお相手を探している自分を客観視した時、「私って人を顔で判断する非情な人間だったのね…」と気がつく。隠れた自分の人間性を露わにするマッチングアプリ、恐るべし。

それと同じくらい重要なのは自己紹介文だ。
 それぞれが書いている自己紹介も多様で個性がでる。文章はつとめて明るく書かれて、自分がどんな人間か、どんな相手を探していて、どんな恋愛・結婚がしたいのか。さらに文章には書ききれないことはプロフィールとして設定してある。

 自己紹介によく書いてあるのは「出会ったことのないタイプの人とお話がしてみたい」という旨の文章だ。
 私はしがない文系大学院生であり、この種の人間は少なくはないが、多くはない。働いている人の方がよっぽほどコモンな存在であり、よく出会うタイプだろう。
 しかし、私はこの手の自己紹介を書いている人とマッチングした試しがない
おかしい。明らかに、私こそが、三十路過ぎても学生なわたしのほうが、レアケースであり、出会ったことのないタイプの人だと思うのだが。
 いや、もしかすると、私が勘違いしているだけで、「大学院生」なんて実は公園の鳩よりもありふれた存在なのだろうか。あるいは、その人にとって「出会ったことのないタイプ」とは、例えばジャングルの奥地で自給自足をするような人なのだろうか。きっとそうだ。そんな人々が利用してるなんて…やはりマッチングアプリ、恐るべし。

 しかし、それでは話が先に進まない。こんな自分だって、ごくたまには、奇跡的に、何の因果かマッチングすることがある。
 そこから始まるのは探り探りのメッセージでのやりとりである。これが意外とキツい。プロフィールに書いてあったことを頼りに質問したり、会話を進めていく。まずはいろいろ聞き出すことが重要だ。

相手が答えやすい質問
つまり、極端にプライベートなことではなく、一般的かつ、ある程度会話が弾みやすいようにフランクで、ウィットに富んだ質問を投げ掛ける。


これは冗談でもなんでもない。
 初めてやりとりをする、しかも会ったことも、相手の雰囲気や、普段のコミュニケーションの方針もわからない相手とやりとりをするのだから、それくらいの思考は必要となろう。
 そうして色んなことを考えて、メッセージを送り、相手の返事を待つ。言い忘れたが、マッチングしたからといって必ず返事がくるわけではない。送っても無反応なこともある。
 で、それも乗り越えて、返事が来る。質問の答えだけが返ってくる。また相手が返事をしやすいように考えてメッセージを送る。この繰り返しは、意外とキツい。

 こうやって様々なハードルを超え、実際に会ったとする。でも全然話が弾まないとか、盛り上がったと自分が思っていても二度と連絡が来なかったり。

 もう…すごいハードルが高い。まだフ○ムソフトウェアの出す鬼畜難易度のゲームの方が易しい。何回もトライできるもんね。ゲームと違って途中に復活ポイントがあるわけでもない。
 マッチングアプリで出会うとは、例えるなら「スーパーマリオ」を初見プレイで最終ステージまできて、クッパを倒せと言われていることと何ら変わりはない。ちなみにクッパに負けたらからと言って「他」があるかは不明である。やはりマッチングアプリ、恐るべし。

 多少は誇張した表現を使っているかもしれないが、同感してくれる人もいるのではないか。1000人いたら1人くらいはいると思う。そもそも読んでる人が1000人いない。

そうやって、ああだこうだと愚痴を垂れつつも、なぜ社会の中でマッチングアプリが存在しているのかを考えたい


 マッチングアプリが一気に普及したのは、ライフスタイルや時間の使い方が多様性を増した結果だという考察は冒頭でも書いたとおりだ。
 誰もが似たような生き方や考え方ではなくなったので、身の回りの知り合いの中だけで「相手」を見つけることは以前より難しくなった。いまいちな相手と無理やり結婚をしたって長続きしないことは容易に想像がつく。

 生き方は多様性を認める世の中になりつつあるが、マッチングアプリの実態を見つめれば意外と固定的な価値観が散乱していることにも気が付く
 それは、例えば相手の顔だったり、職種だったり、年収だったり。それをクリアして、尚且つ性格の一致する相手を見つけようとする。
 男性で言えば、年収が高いとそれだけでマッチング率が格段に上昇する。写真が爽やかかつ、スポーツマン風の好青年だとマッチングしやすくなる。
 逆もまたしかりだ。女性なら、さらにフィジカルの要素が強く反映される。今風の顔が整った人がもらう「いいね」の数は凄まじい。それに合わせて、保守的な女性らしさや、家庭的な内容のプロフィールは強い人気を誇る。

 マッチングアプリは現代社会が持つ多様性を反映して一気に主流になってきた。その反面、実際に「出会う」段階になると旧来の性別役割が意識されている片鱗がみられる

 マッチングアプリは常に二重性を内包している状態にあって危うい部分も多数ある。まだまだマッチングアプリに対する愚痴…否、分析はまだまだ可能だがそれは別の機会に譲ろうと思う。

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